中・近世における武家の書記役。執筆(しゆうひつ)ともいう。
武家社会が成立して以後,行政事務の繁多によって文書処理の必要性が増大したが,文盲の多い武士間では,文筆を業務とする書記がしだいに専門化した。地方の荘園でも村落内で文書を扱える人々はごくわずかで,寺僧などを雇用して便宜をはかっている例が多い。文字が公家と僧侶の独占物であった時代が永く,仮名文字さえ民間普及は遅々として進まなかった。鎌倉幕府は裁判を職掌とする引付(ひきつけ)に書記役を置いたが,それを引付右筆または執筆と称した。それらの人々は京下りの公事奉行である太田氏,三善氏などの一族または末裔が多く,北条一門や外様の有力御家人からなる引付衆に指揮される存在で,引付衆よりは一段下位の身分であり,幕府吏僚としては下層に位置付けられた。関東下知状などの幕府の発給文書は彼ら右筆が清書し,差出者の名判を記す署名部分の花押(かおう)のみ執権,連署,探題などの重役が書いた。したがって文書の筆跡は右筆のそれであって,必ずしも発給者を表すものではない。ただまれには書状など私信の形式で,差出者本人の筆跡で全文書かれることもある。
室町期に入って足利尊氏などは1000余点の文書を残しているが,それらの中には花押まで右筆が書いたものがある。禁制や祈禱依頼など一時に大量の発信が必要な場合,花押も含めて右筆が代筆したらしい。室町幕府では前代に引き続いて引付方に右筆が配属され,奉書(ほうしよ),御教書(みぎようしよ)の清書に当たったが,14世紀末に引付が廃絶されると,政所,侍所,問注所,恩賞方など各部局に属して長官の指揮を受けつつ文書事務を担当した。これらの文書官僚群を奉行人とも呼んだが,御物奉行,作事奉行,御庭奉行などの将軍家産にかかわった人々は右筆とは呼ばれない。また彼らは右筆方という集団を構成して将軍の諮問に応じ,意見状を上申した。右筆奉行人の中からは,各部局の開闔(かいこう)(事務次官)や執事代に昇進して,幕府政治に深くかかわった人々も多く,幕府の人事や機密に関与して追放,暗殺,処刑された者もある。なお幕府以外に,各守護家にも右筆が抱えられていた。
執筆者:今谷 明
豊臣秀吉政権の右筆については,何人かの存在が知られているが,秀吉の側近という性格が強く,制度的に権限・職掌が確定してはいなかったようである。江戸幕府初期の右筆も,徳川秀忠の右筆曾我尚祐,家光の右筆大橋竜慶のように将軍の側近という性格が強かった。曾我尚祐の父乗祐は室町幕府15代将軍足利義昭の側近であり,尚祐は室町幕府の滅亡後に織田信雄(のぶかつ)に仕えて右筆をつとめた経歴をもち,初期の江戸幕府将軍は,こうした書札礼(しよさつれい)や武家故実にのっとった文書を作成できる人物を側近に置くことによって自己の発給する文書を権威づけたのであり,尚祐をはじめ初期の側近的右筆の知識が秘伝として後代の右筆に伝えられたのも,そのためであった。草創期が過ぎて幕政が先例によって運営されるようになると,文書・記録のことにあずかる右筆は,先例を調査し老中に報告することを職務の一つとするようになった。
1681年(天和1)幕府の右筆は奥右筆と表右筆とに分化し,奥右筆が新たな職務を担当し,表右筆は従来の物書きとしての職務を担当することになった。表右筆は,将軍の御内書(ごないしよ),老中奉書などを執筆するほかに,幕府の日記(江戸幕府日記)をつけ,また分限帳(ぶげんちよう)など大名・旗本などの名簿を管理した。奥右筆は,老中の諮問を受けて先例を調査するという形で,幕政全般にわたって意見を具申し,事実上幕政の日常的運営に参画する存在となった。このため機密の保持上奥右筆には外様大名との接見禁止など服務上特別な規定があったが,実際は特定の大名と出入関係を結んで便宜をはかる者が多かった。時期によって異なるが表右筆は30~80人,奥右筆は10~20人で,それぞれ数人の組頭によって統率された。諸藩にも右筆が置かれたが,その役割は幕府の右筆と大同小異であった。藩内の処遇も幕府右筆と同様で,番方(ばんかた)の武士と同格またはやや下であった。
執筆者:高木 昭作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
執筆者・代表者のこと。古代以来日本では、公私の文書の作成を専門にする書生・公文(くもん)などとよばれる人がいたが、中世以降は、同様に文書作成にあたる人を右筆とよび、とくに武家でこの制度が発展した。鎌倉幕府では引付(ひきつけ)に右筆が置かれ、室町幕府では引付衆と政所寄人(まんどころよりうど)を総称して右筆衆または右筆方とよんでいる。江戸時代になっても幕府はこの制度を引き継ぎ、奥右筆、表右筆などが置かれていた。また私的な代筆者も右筆とよばれ、写経などでも悪筆である場合は、右筆を頼むことが多かった。近代に入ると、右筆の称はなくなったが、書記などの文書作成の専門職は存続した。祐筆とも書く。
[飯沼賢司]
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筆を執ること。公家の家政機関では院司・家司が奉書を作成し,能書は尊重されても,右筆をおくことはなかった。文筆にたけた者の少ない鎌倉では,主人の意をうけて文書・書状を作成する右筆は重宝がられ,北条氏や有力御家人の被官にも右筆が現れた。引付(ひきつけ)に右筆の職がおかれ,幕府の奉行人が任じられた。室町幕府では,引付に配属された奉行人を総称して右筆方奉行人と称した。戦国期以降も右筆は重用され,政務にかかわる者も現れた。江戸幕府では役職として設置され,当初は室町幕府の書札礼(しょさつれい)式などの知識や経験をもつ者が登用された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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[文書による行政]
この経路を物的側面から見ると,それは大量の文書の流れであったことが指摘できる。まず政策決定自体が政治的権威の伝統化に伴って先例・先格に左右されるようになった結果,記録の類を管理し先例にのっとって書類を起案する右筆などの役人が,政治の日常的運営に果たす役割の大きさが注目される。起案された書類は関係者の稟議を経て最終的に将軍によって決裁された。…
…高札(こうさつ)も御触書の一種と見てよい。御触書は老中,若年寄の合議体である御用部屋で方針を定め,奥右筆組頭が調査,起案し,将軍の裁可によって制定法となる。表右筆は書付(かきつけ)と称するその写しを作成し,支配の筋に応じて諸方面に配布した。…
…江戸幕府2代将軍徳川秀忠の右筆。足利尊氏以来の室町幕府将軍直臣の家柄の生れ。…
…とくに謀書(ぼうしよ)(偽書),謀判(ぼうはん)のありうる鎌倉時代以降には,発信人の真なることの証明も必要とされ,その人独自の模倣しがたい自署(花押(かおう))が創出される。私信は内容の秘密性により必然的に右筆(ゆうひつ)には任せられず,自筆にならざるをえない。また自署はおのずから礼にかなったこととされる。…
…古文書学上の用語。一般に,貴人の出す文書で主人に代わって侍臣が書いたものを,右筆書という。右筆は,祐筆,佑筆とも書き,筆を助けるの意で,貴人発給文書の文案作成,浄書を職掌とする。…
※「右筆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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