幕末に幕府が設けた洋学の教育研究機関。1853年(嘉永6)幕府がペリー艦隊の威力の前に屈服した結果,外交事務がにわかに多忙となり,そのため専任の外交担当官と翻訳官の養成を迫られた。またこれとならんで軍備の充実が緊急な課題となった。そこでこれに対処するため洋学校の設立を図り,55年(安政2)に古賀増を洋学所頭取に任命し,翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称,九段坂下の旗本屋敷を改修して校舎にあて,同年7月に開所,翌57年1月から開講した。教官の陣容は教授職2名で,箕作阮甫(みつくりげんぽ)(津山藩医)と杉田成卿が任命され,教授手伝に川本幸民(三田藩医),高畠五郎(徳島藩医),松木弘安(薩摩藩医)ら6名,ほかに句読教授3名が任命されたが,その後逐次補充増員されて幕末に及んだ。教官ははじめ陪臣が大部分であったから,彼らはいつ主家から呼び戻されるかわからず,そこで幕府は主要な洋学者を直参に登用することにし,62年(文久2)に箕作阮甫と川本幸民を直参に取り立てたのをはじめ次々と直参に登用している。入学の資格は漢学の素養を第一条件とし,年齢には制限がなかった。ただし,幕臣に限ったのでこれに陪臣の教官が反対し,のちには諸藩士にも開放した。しかし実際に入学したのは主として幕臣で,それも下級幕臣の子弟が大部分を占めた。調所は開所以来,盛況を極めた。57年1月の開所式に出席した生徒は191名で,これは1000名を超える応募者から選抜したものであった。
幕府は調所を設立するにあたって軍事科学の導入に重点をおき,砲術,築城術,造船術,兵学,測量術,航海術等の書籍の翻訳を第一の目的とするとともに,あわせて語学教育を行うことを当面の目標とした。したがって初期には語学教育が中心で,主として句読教授がこれを担当し,教授は翻訳に従事した。しかし60年(万延1)以降,精煉学(化学),物産学,数学などの専門学科が次々と新設されると,これにともない調所の規模も拡大され,校舎も新設され,名称も洋書調所と改められ,ついで63年には開成所と改称された。そして翌年には開成所規則が制定され,オランダ語,英語,フランス語,ドイツ語,ロシア語の5ヵ国語のほか,天文学,地理学,窮理学,数学,物産学,化学,器械学,画学,活字術の9学科が定められた。このころから人文科学の研究も始められ,法学,経済学,統計学等の分野も開かれた。ついで65年(慶応1)陸軍奉行,海軍奉行が開成所掛に任じられて以来,開成所は軍学校の機能を兼ねるにいたった。そのため生徒の数が激増し教官の数が不足したため,翌年には教官の職制を改めて教官数41名とした。大政奉還後,開成所は外国奉行の所管に移され,明治政府成立後は接収されて,名を開成学校と改め,69年(明治2)大学校の設置にともない,これに吸収され,のちに帝国大学の一部門となった。
執筆者:佐藤 昌介
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江戸幕府の洋学研究教育機関。1853年(嘉永6)のペリー来航を契機に幕府は外交・軍事面の充実を図り、その一策として洋学を取り扱う機関の設置を計画した。1855年(安政2)洋学所という仮称のもとに頭取(とうどり)古賀謹一郎を中心として準備が開始され、1856年蕃書調所という名で開業、1857年1月授業も開始された。同所の任務には、洋書洋文の翻訳・研究、洋学教育、洋書・翻訳書などの検閲、印刷・出版、一部の技術伝習があり、これを担当する教授方には、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、杉田成卿(せいけい)、松木弘安(こうあん)(寺島宗則(むねのり))、村田蔵六(ぞうろく)(大村益次郎)ら著名な洋学者が任ぜられた。当初、設置科目は蘭学(らんがく)1科であったが、1860年(万延1)より1862年(文久2)にかけ、英・仏・独の外国語、および精煉(せいれん)・器械・物産・数学などの科学技術部門諸科が次々に開設された。構舎は初め江戸九段坂下にあったが、1859年(安政6)に小川町へ、1862年に一橋(ひとつばし)門外へ移転した。蕃書調所は1862年に洋書調所、1863年に開成所と名称を変え、維新後は明治政府に移管され東京大学の前身校の一つとなった。
[宮崎ふみ子]
『大久保利謙著『日本の大学』(1943・創元社)』▽『沼田次郎著『幕末洋学史』(1950・刀江書院)』▽『沼田次郎著『洋学伝来の歴史』(1960・至文堂)』
江戸幕府が設けた洋学研究教育機関。1853年(嘉永6)のペリー来航を契機として,洋書翻訳と洋学の研究・教育を目的に幕府によって洋学校の設立が計画され,55年(安政2)に初代洋学所頭取に古賀謹一郎(号は茶渓など,諱は増)が任命され,翌年,蕃書調所と改称して江戸九段坂下に開所した。箕作阮甫と杉田成卿の2名の教授と教授手伝,句読教授が任命され,洋書の翻訳とともに洋学教育が実施された。開所当時,1日約100名が登校した。入学者は当初幕臣に限定されたが,のち諸藩士も認められた。オランダ語をはじめ,英語,フランス語,ドイツ語などの語学教育が実施された。1863年(文久3)開成所と改称。翌64年に制定された開成所規則ではオランダ語,英語,フランス語,ドイツ語,ロシア語の5ヵ国語と天文学,地理学,窮理学(物理学),数学,物産学,化学,機械学,画学,活字術の9学術の実施が定められた。1868年(明治1)開成所は明治新政府に移管された。
著者: 冨岡勝
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江戸幕府の洋学研究教育機関。主要業務は洋書翻訳・洋学教育・洋書翻訳書検閲。老中阿部正弘のもとで,1856年(安政3)2月に洋学所が蕃書調所と改称され,7月に古賀謹一郎を頭取として九段下に開業。翌年1月に開校式を行い,幕臣とその子弟に対する洋学教育を開始。はじめは毎日約100人の登校者がいた。58年5月には蘭語句読修了以上の者にかぎり陪臣にも入学を許可。教授方は開業当時の15人からしだいに増加し,59年には22人となった。58年井伊直弼(なおすけ)が大老となり幕政の実権を握ると,蕃書調所は幕府内部で軽視されるようになり,59年小川町の狭い構舎へ移転された。しかし60年(万延元)に直弼が倒れると学科新設が相つぎ,名称も洋書調所,さらに開成所と改称され発展。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…長崎のオランダ商館は幕初以来,毎年オランダ商船のもたらす海外情報を江戸幕府に献上していた。これを〈オランダ風説書〉といったが,安政末年にいたってジャカルタのオランダ総督府機関紙《ヤファンシェ・クーラントJavaansche Courant》が代わって献上されるようになり,蕃書調所が翻訳して幕政当局に提出した。1862年(文久2)1月,幕府は御用書肆であった本所竪川三之橋の老皀(ろうそう)館に,これを《官板バタヒヤ新聞》と題して出版させた。…
…このような文の構造は〈ワク構造〉と呼ばれる。
[日本におけるドイツ語学習]
日本における本格的なドイツ語学習は,1860年(万延1)7月,プロシア(プロイセン)東洋遠征艦隊来航の際,蕃書調所(ばんしよしらべしよ)の市川斎宮(いつき)が〈独逸(どいつ)学〉を学ぶ公命を受け,それを機にドイツ語を学び始めた時をはじめとする。1862年(文久2)には洋書調所に独逸学科が開設され,この年,日本最初のドイツ語読本である《官版独逸単語篇》が出版された。…
※「蕃書調所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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