田根庄(読み)たねのしよう

日本歴史地名大系 「田根庄」の解説

田根庄
たねのしよう

川中流域に開けた久我家領庄園。庄名は古代の田根郷(和名抄)に由来すると考えられる。さらに「日本書紀」天武天皇元年(六七二)八月の記事によれば、壬申の乱に勝利した大海人皇子が近江朝廷の有力者右大臣中臣連金を野上行宮のがみのかりみや(現岐阜県不破郡関ヶ原町)に近い「浅井田根」の地で斬らせており、同郷はこの地の遺称地と考えられる。

吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一〇月九日条によれば、もとは藤原朝房が領知しており、朝房が源義経に関係が深かったとの理由から源頼朝の怒りにふれ、籠居のやむなきに至った時に佐々木定綱の押領を受けている。また同月一二日条によれば後白河上皇の院宣を受けた頼朝が定綱に和与を勧告上皇にその旨の請文を提出している。こののちしばらくして田根庄は久我家領となっており、「民経記」寛喜三年(一二三一)七月二五日条には、伊勢の奉幣使派遣の費用捻出を「領状」した庄園のなかに久我通光前内大臣知行の田根庄の名がみえる。久我通光の後は後室の西蓮が領知、西蓮は宝治二年(一二四八)一一月、如月尼(久我通光後室)に当庄を譲っている。この時の同月二三日付西蓮置文案(久我家文書、以下とくに断らない限り同文書)によれば、如月尼が一期領知した後は西園寺実兼室顕子に譲られることが定められており、嘉元二年(一三〇四)四月一八日の尼如月譲状案によれば、そのとおりに譲られている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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