近江(おうみ)の守護、戦国大名。久頼(ひさより)の子。幼名亀寿。生年は不詳だが、1472年(文明4)には元服し、四郎行高(ゆきたか)と名のっている。高頼と名のるのは83年(文明15)と考えられ、同年大膳大夫(だいぜんたいふ)に任ぜられた。応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の内乱期(1467~77)には年少で、一族の山内政綱(まさつな)や伊庭貞隆(いばさだたか)が守護代として勢力をもった。また西軍につき、守護職をめぐって京極持清(きょうごくもちきよ)・政高(まさたか)父子、さらには従兄弟(いとこ)政堯(まさたか)・政信(まさのぶ)と争った。その後、山門(比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ))領および寺社本所領や幕府近習奉公衆(きんじゅうほうこうしゅう)の所領を押領したことにより、87年(長享1)将軍義尚(よしひさ)の討征を受けたが、甲賀(こうが)、伊勢(いせ)に逃れて服さず、続けて91年(延徳3)には義稙(よしたね)の討征を受けた。しかし将軍が帰洛(きらく)すると勢力を回復し、95年(明応4)には赦免された。その後さらに荘園(しょうえん)・所領の侵略を進めて領地を広げ、一方で伊庭貞隆の乱を破り(1503)、国人(こくじん)の九里(くり)氏を殺害し(1511)、家臣団を統制して戦国大名としての基盤をつくった。晩年氏綱(うじつな)に家督を譲ったが早逝され、次男定頼(さだより)に譲った(1518)。永正(えいしょう)17年10月21日病没。法号龍光院仙翁宗椿(りゅうこういんせんおうそうちん)。
[宮島敬一]
(宇野日出生)
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[戦国時代]
応仁の乱では京極氏は細川方,六角氏は山名方につき,山門・寺門の争いや土一揆もあって,近江では戦乱が絶えなかった。その後,近江守護六角高頼は領国支配の強化を図り,幕府の命に背いて国内の寺社本所領や幕府近臣の所領を押領(おうりよう)した。1487年(長享1)将軍足利義尚は近江に出陣して高頼を伊勢に追ったが,義尚は陣中で没した。…
…室町幕府9代将軍足利義尚の1487‐89年(長享1‐延徳1)と,10代将軍足利義材(義稙)の1491‐92年(延徳3‐明応1)の2度にわたって行われた,近江守護六角(佐々木)高頼を討伐し,押領された荘園を回復するための出兵。 応仁の乱後,諸国で守護大名とその被官による公家や寺社領の押領がひんぱんになり,近江でも守護六角高頼とその被官による荘園の押領がはなはだしかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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