田沢山
たざわやま
[現在地名]豊科町大字田沢・光
田沢の東方の上野山・透ヶ原山・二場城山・黒尾山一帯と光城山の東南
付近の山をさす。江戸時代には柴山・草山であり、南安曇郡熊倉・中曾根・踏入・寺所・重柳方面の村々の入会山であったこともある。
水田に入れる苅敷、日常の薪炭用の雑木も地元村々との規定により採集したが、ときどき山論を生じた。それらについては旧上川手村役場文書など一括して南安曇郡豊科町立郷土博物館に収蔵されている。奈良井川を隔てて安曇平の村々の入会であった理由については、中世末、小笠原氏の武将として苅谷原城にいた太田資忠の所領がこの地にあったからとの説がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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