田沢村(読み)たざわむら

日本歴史地名大系 「田沢村」の解説

田沢村
たざわむら

[現在地名]中里村田沢

信濃川右岸と支流清津きよつ川右岸に画された地。高津倉たかつくら山を南限とし、東側は当間あてま山が現南魚沼郡塩沢しおざわ町・十日町市との境をなす。信濃川と並行して走る善光寺道と分岐して、清津川沿いの各集落を縦貫する道が、最奥地の倉下くらした土倉つちくらに達し、十二じゆうに峠越でせき(現塩沢町)に至り、三国街道(現国道一七号)と結ばれる。この道は道路改良が行われ、近年はトンネルが貫通している。集落は善光寺道の上手から荒屋あらや山崎やまざき上山かみやま如来寺によらいじ・田沢・芋沢いもざわ、街道からやや西の信濃川右岸に干溝へんぞ小原こばらがある。山崎から清津川に沿って南東の山地部に至り、下手から通り山とおりやま高道山こうみちやま朴木沢ほきざわ・朴木沢新田・白羽毛しらばけ程島ほどじま東田尻ひがしたじり角間かくま葎沢もぐらざわを経て倉下・土倉に至る。「くら」は断崖の意で、この二集落を両倉りようくらとも称する。村の中央を流れる信濃川支流なな川沿いの丘陵地帯に東田沢・豊里とよさと市之越いちのこし鷹羽たかばの集落がある。このほか元禄郷帳には田中たなかかつら藤原ふじわら新田などの名もみえる。天保郷帳によると、かつてはこれら集落はすべて独立村で、その数は二二ヵ村であった。


田沢村
たざわむら

[現在地名]福島市田沢・蓬莱町ほうらいちよう

清水町しみずまち村の東、阿武隈川左岸に沿う。北は黒岩くろいわ村・渡利わたり村、東対岸は伊達郡立子山たつごやま村、南は浅川あさがわ村。村名は「信達一統志」「信達二郡村誌」によれば、山間の沢を開いて田地としたことに由来するという。「信達二郡村誌」は天正一〇年(一五八二)の頃、丹治但馬・同丹後・同縫殿助が山間を開拓し耕地としたとするが、天文七年(一五三八)の段銭古帳に「御はんの所」のうちとして「田さハ」とみえ、段銭は四貫四二五文とあり、また木曾内きそうち中之内なかのうち戸之内とのうち山之内やまのうち石内いしうち杉之内すぎのうちなど内がつく中世在家が存在するので、当村の開発は中世にさかのぼることが確実である。中世の在家を連絡して村の中央を鉤の手状に貫く道は、中世浅川村の集落があった古浅川ふるあさかわに通じた。この道は近世奥州道中の開通以後は脇道となったが、中世には当地域の重要な道であった。


田沢村
たざわむら

[現在地名]平田町田沢

中野俣なかのまた村の南西にあり、東は升田ますだ村。田沢川下流の山沿いに集落が散在する。江戸後期の出羽荘内二郡絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)では田沢川右岸上流から中村なかむら小女房おにようぼう小平こだいら荒町あらまち鷺野さぎの・田沢・長根ながね、田沢川左岸に田沢と八集落がみえる。高畑たけばたけ・小女房・岩台いわだい遺跡には縄文時代の集落跡、小平遺跡には奈良時代・平安時代の墳墓がある。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に、砂越さごし城主武藤万歳丸の所領の一つとして「田沢」とある。栗木坂くりきさかの西方山上に田沢館跡がある。築館または荒川館とも称し、広さは東西三一間・南北七三間。上杉氏領の時、坂本口の備えとして当地に配置された荒川玄蕃義次の館で、天正一八年(一五九〇)太閤検地反対の一揆勢に攻められ義次は討死した(「売渡状」荒川文書など)


田沢村
たざわむら

[現在地名]田沢湖町田沢

田沢湖の北にあり、たま川に沿って狭い段丘に集落が点在する。北は玉川たまがわ村、南は生保内おぼない村、東は山脈を境に南部領に接する。

天正一八年(一五九〇)の出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳(戸沢文書)に「田沢村」とあり、田高三〇一石四斗四升、畑・屋敷高二三石三斗、合計三二四石七斗四升が記される。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には四一六石とある。享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)に家数三六軒、本田当高三七六石余、新田を合わせて当高四一五石九斗三升六合とあり、支郷に湯野又ゆのまた村六軒、小沢こさわ村六軒、鎧畑よろいばた村三軒、見付田みつけた村八軒、張山村三軒、大谷地おおやち村二軒、張坂村一軒、上むら二六軒、先達せんだつ村二軒が記される。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には家数一五〇戸、元治元年(一八六四)の仙北郡奥北浦村々惣高家数人数馬数取調帳(小貫文書)には一五五戸とある。


田沢村
たざわむら

[現在地名]檜山郡江差町字田沢町

近世から明治三九年(一九〇六)まで存続した村。尾山おやま村の北、西は日本海に面する。東部の山地を源流とする田沢川が南境を西流して日本海に注ぐ。田沢川沿いに低地が広がる。「津軽一統志」に「田沢 狄おとなミロク 家四十軒程」とあり、所載の蝦夷地図ではトマリの北隣に「田サワ」とみえる。延宝六年(一六七八)厚沢部あつさぶ山中の檜木伐採が始まり、檜山山監が上ノ国より江差に移設されており、同年二月七日とまり村・田沢村の肝煎らに木材(角物)値段などについての申渡書が出されている(福山秘府)。元禄郷帳・享保十二年所附・天保郷帳に田沢村とみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃には松前藩重臣蠣崎蔵人の支配地であった(支配所持名前帳)。宝永七年(一七一〇)の「蝦夷談筆記」に「蝦夷地と松前地との境の義しかと限は無御座候。西在郷は田沢・乙部」辺りまで和人と蝦夷人(アイヌ)が混住していたが、蝦夷人は「近年は少く罷有、田沢、乙部抔のゑぞは疱瘡疹に死亡仕、只今は大方絶申候」と記されている。


田沢村
たざわむら

[現在地名]豊科町大字田沢

松本藩領もと麻績おみ組のち川手かわて組の中の一村で、さい川本流の右岸と、松本城山まつもとじようやま丘陵の間に南北に長く位置する村。天正検地の際は二〇〇石二斗三合と高付けされている。「信府統記」で麻績組の筆頭として「御朱印高二百石二斗三合」と同高であるが、享保九年(一七二四)の現在高は四七六石八斗七升九合六勺と二〇〇石余の増となっているのは、開発が進んでいることを物語っている。当時の耕地面積は、水田一七町九段六畝一七歩、畑地二〇町一段八畝二〇歩と均等で、ほかに大口沢おおくちざわの上流の谷あいに耕地・山林をもっている。慶安検地時の百姓数は、本百姓二六軒、門百姓一五軒の計四一軒となっている。


田沢村
たざわむら

[現在地名]青木村大字田沢

浦野うらの川の上流、田沢川の流域全部と沓掛くつかけ川の下流左岸を含む地帯。北・西は筑摩ちくま郡、東は夫神おがみ村、南は村松むらまつ郷に接する。中村なかむら中挟なかばさみ入田沢いりたざわの三集落に分れる。

明治一四年(一八八一)の村内取調べによれば、往昔は田沢村であったものが、元和二年(一六一六)、入田沢村・中村・中挟村の三ヵ村としたとある(長野県町村誌)。宝永三年(一七〇六)村差出帳には信濃国小県郡田沢郷差出帳として、石高・上納高などを入田沢村・中村・中挟村の三ヵ村に分けて記し、村役人も別々にあるので、近世中期の田沢村はこの三ヵ村の連合体的なものであったことがわかる。ただし、天正七年(一五七九)の上諏訪造宮帳に「小県浦野庄」として「中挟之郷」「田沢郷」と並記されているので、中世は中挟と田沢は別々の村であったと想定される。


田沢村
たざわむら

[現在地名]大石田町田沢

横山よこやま村の南、山形盆地の北端から尾花沢おばなざわ盆地の南端にかけての最上川左岸に位置し、西は大高根おおたかね山に限られる。当村には野地が多く、深山もないので小河川や雨水による水利が主で、恒常的な干害に苦しめられた。その対策として、おお堤をはじめ五ヵ所の堤があった。枝郷に小菅こすげ西山にしやまさわ結木ゆうきがある(新田本村鑑)

最上氏改易後は新庄藩領。元和八年(一六二二)の高七五三石余(新田本村鑑)正保郷帳では田高七四五石余・畑高八石余。延宝三年(一六七五)の検地帳(森文書)では本田畑四五町四反余・新田四町九反余。貞享元年(一六八四)の検地帳(同文書)では本田畑高五九九石余・新田高八四石余。


田沢村
たざわむら

[現在地名]平内町東田沢ひがしたざわ

夏泊なつどまり半島の先端を占め、東と北は陸奥湾に面し、東は白砂しらすな村、西は支村の野内畑のないはた村を経て山越しに稲生いのう村、南は山を隔てて小豆沢あずきさわ村と接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に「下田沢村」とあり、高一〇四・九二石とある。元禄二年(一六八九)の黒石平内巳年郷帳(市立弘前図書館蔵)には田沢村とあり、高一九〇・一七七石、うち田方一七四・九九石、畑方一〇・一〇七石、屋敷方五・〇八石とあり、半島部第一の米産地域であった。


田沢村
たざわむら

[現在地名]茅野市宮川みやがわ 田沢

神野原こうやはら(諏訪郡の→神野の西端部に開発された古村で、南部には宮川が西流し、西部は坂室さかむろ新田村に隣接する。

承久元年(一二一九)の「諏方十郷日記」(守矢文書)に、一〇郷の一つとして「田沢九間」とあるのが田沢郷の初見である。嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に、「新社明神田沢鎮守稲荷大明神」とあり、嘉禎当時、稲荷社は田沢郷の「西之宮」から立倉たつくら山に遷宮したため新社しんしやと称したと伝えられている。祭神は稲倉魂命である。

諏訪照雲(頼重)得分免許状(守矢文書)に元弘四年(一三三四)二月八日「たのミのむらのぞ(除)きの事、原山今年とくふん(得分)百弐拾七貫文のうち、弐拾陸貫文ハきうふんたるによつてのぞくところなり、状如件」とあり、「たのミのむら」は田沢村の古名ともいわれる。


田沢村
たざわむら

[現在地名]岩代町田沢

茂原もばら村の北、口太くちぶと川の最上流部に位置し、北と東は山木屋やまきや(現川俣町)、西は北戸沢きたとさわ(現東和町)。最高所は南東端の(天王山、一〇五七・六メートル)。口太川が氾濫してつくった小埋積盆地に集落と水田が散在しており、中心集落というべきものはみられない。慶長一七年(一六一二)の山木屋との堺証書(松藩捜古)に田沢村の嘉けいという人物が仲裁人として記されている。しかし文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録や寛永一三年(一六三六)の加藤家安達郡所納村々高目録(松藩捜古)には高付の村として記載されていない。


田沢村
たざわむら

[現在地名]引佐町田沢

獺淵おそぶち川の上流神子みこ川流域に位置し、三河との国境をなすしろ(六五六・八メートル)の南東麓にある。南は的場まとば村。井伊氏八代泰直の弟直家の子直道が田沢を称し、井伊氏庶流田沢氏の祖となった(寛政重修諸家譜)。南北朝期に直道の孫にあたる頼直とその子通直が田沢城を築き、三岳みたけ城の北の防備をなしたと伝える(「礎石伝」中井家文書)。礎石伝に田沢城は「田沢村之内、山之中腹に城跡在之候、是はアテ山ト申候高山也、但し峠より少し西へ寄候て凡七合目位之所也」とあり、近年この地で矢の根が採取されて位置の確認もなされた。


田沢村
たざわむら

[現在地名]東部町大字かのう

小県郡の東部、烏帽子えぼし岳南側谷口にあって、金原かなばら川・成沢なるさわ川の上流一帯に広がる村。東は禰津ねつ姫子沢ひめこざわ、西は小井田村(現上田市)、南は東上田ひがしうえだ村、北は殿城山。東田沢ひがしたざわ本村より南東に向かう古道は、中居峠を越え、姫子沢から根津村に通じ、南西に下る道は、西田沢・鑪鞴堂たたらどうを経て、栗林くりばやし村・深井ふかい村に通じ、西に向かう山道は長入おさいりの南を通り、大日おひ矢沢やざわ村等に通じている。

永禄八年(一五六五)の諏訪大社上社造営再興次第(諏訪大社上社蔵)に「一大宮御門屋之造宮領(中略)海野之分正物合二俵一斗九升二合田数二町三段田沢之分」として、造宮料を負担している。また元亀元年(一五七〇)三月の諏訪大社上社御頭役請執帳に「弐の御頭海野之田沢」と記され、三月会の頭役を負担している(土橋家文書)


田沢村
たざわむら

[現在地名]亘理町逢隈田沢おうくまたざわ

阿武隈川南岸にあり、対岸名取郡南長谷みなみはせ玉崎たまざき(現岩沼市)への渡船場があった。南は下郡しもごおり村、西は小山こやま村、東は中泉なかいずみ牛袋うしぶくろ十文字じゆうもんじ榎袋えのきぶくろの各村と接する。本村東方に端郷森房もりふさがある。正保郷帳では田二七貫七八文・畑二〇貫三七一文。万治元年(一六五八)新田検地(「亘理町史」所収)には早川はやかわ新足軽一五名が記載され、延宝三年(一六七五)の新田検地帳(同書所収)には上鉄砲かみてつぽう町足軽三三名が記載されている。早川は森房の南、江戸浜街道沿いに開ける。安永八年(一七七九)と思われる「風土記御用書出」(同書所収)では田三三貫九〇四文・畑一〇貫九七二文(うち茶畑三二文)


田沢村
たざわむら

[現在地名]天城湯ヶ島町田沢

狩野かの川の上流東岸に沿った段丘上に位置し、北は矢熊やぐま村。対岸つき村との間に同川最上流にあたる田沢渡がある(増訂豆州志稿)下船原助しもふなばらすけ神社の天文二年(一五三三)九月二四日の棟札銘に勧進者の一人として「田沢百文六郎ゑもん」とみえる。当地天神社の同一四年の棟札銘に村名があったという(増訂豆州志稿)。北条氏所領役帳に北条家臣御馬廻衆山角四郎左衛門康定の所領として二六貫五〇〇文「豆州狩野田沢」とみえる。元禄郷帳では高一八六石余。領主の変遷は佐野さの村に同じ。万治三年(一六六〇)の狩野山中五人組帳(大城家文書)には名主のほか三〇名が載る。宝永三年(一七〇六)の年貢割付状(小川家文書)によると茶畑上木年貢一石四斗二升八合・楮役永五文五分。


田沢村
たのさわむら

[現在地名]羽後町田沢

西馬音内前郷にしもないまえごう村の南約二キロに位置し、山越えに東は床舞とこまい村、西は鹿内しかない村と接する。

曲師まげし集落の比高約六〇メートルの山頂に館岡たておか城跡があり、空堀の遺構を残す。中世末、小野寺義忠が住したと伝える。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に田沢村二二七石とある。

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば、高は本田二〇九石三斗六升五合、新田六〇石四斗二升五合、合計二六九石七斗九升(当高二五四石六斗八升四合)


田沢村
たざわむら

[現在地名]西山町田沢

北は尾野内おのうち村・別山べつやま村、南は藤掛ふじかけ村、東は小峠ことうげ五軒湯ごけのゆ峠)越で三島さんとう宮本みやもと(現長岡市)に通じる。西は別山川を挟んで伊毛いも村・下山田しもやまだ村。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「田沢」とあり、伊勢御師の檀那が所在したと思われる。元和二年(一六一六)長峰藩領、同五年高田藩領、天和元年(一六八一)幕府領、貞享二年(一六八五)高田藩領、宝永二年(一七〇五)与板藩領。元和四年の長岡藩知行目録では高三六九石二斗。正保国絵図では田沢村高三六二石余と赤坂村高一〇石余。


田沢村
たざわむら

[現在地名]内原町高田たかだ 田沢・作壁さつかべ

涸沼前ひぬままえ川の北東岸の台地上に位置し、鯉淵こいぶち村より長岡ながおか(現茨城町)へ通ずる長岡街道の南にある。西は鯉淵村。

中世には吉田郡に属し高野こうや村と一村をなし、江戸初期は水戸藩領で寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳には「高屋田沢村」とある。正保三年(一六四六)水戸藩領から離れる際に分村、天和二年(一六八二)以後宍戸藩領に属した。元禄郷帳に「田沢村」とみえる。明治一一年(一八七八)高野村と合併し高田村となった。弘化二年(一八四五)の乍恐以書附奉申上候(村沢文書)には「田沢村之儀高百弐拾八石弐斗八升九合立百姓八軒ニ相成其内弐軒死亡潰ニ相成別天保四巳年より申年迄大凶年ニ已ニ亡村ニも相成候儀打捨置候も恐入候間当八ケ年以来分地并貰子ヲいたし潰跡荒地開発仕新家八軒取立精々仕(中略)田沢村 家数拾壱軒 外ニ隠居壱軒 人別四拾七人内男弐拾参人・女弐拾四人馬五疋」とあり、天保期(一八三〇―四四)を中心に著しい荒廃をみせたが、のち徐々に復興した。


田沢村
たざわむら

[現在地名]金山町田沢

滝沢たきざわ村の対岸に位置し、只見ただみ川の河岸段丘原に営まれた集落。東の下流は横田よこた村。本村の西に端村上田沢と小見おみがあり、滝沢村とは船渡しでつなぐ。文明一五年(一四八三)一〇月一〇日の蘆名盛高判物(山内文書)に「会津大沼郡田沢村之内、山内筑前守舘辺之田地三千三百苅、同屋地買地、令永代買得上者、子々孫々執務不可有相違状、如件」とある。古くから横田山内氏の支配地であったらしく、「会津鑑」に柵の記載があり、貞応二年(一二二三)栗田将監勝頼が築構して住し、天正年中(一五七三―九二)には星藤五郎の居館であったという。横田村より分村したといわれるが(会津鑑)、文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名の記載がなく、横田村の高に含まれたと考えられる。


田沢村
たざわむら

[現在地名]青森市西田沢にしたざわ

東は陸奥湾に面し、南は十三森じゆうさんもり村、西は飯詰いいづめ(現五所川原市)、北は夏井田なついだ村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に高三一〇・三六石、うち田方二八六・三石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高六一九・六五八石、うち田方五七六・四五二石、畑方四三・二〇六石、漆木一七〇本などが記される。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)。享和二年(一八〇二)伊能忠敬の「測量日記」には家数二八とある。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「家数十八軒。(中略)古墟あり奥瀬善九郎か住せし処なりと云。


田沢村
たざわむら

[現在地名]津川町栄山さかえやま 田沢

焼山やけやま村の南に位置する。「新編会津風土記」によれば、本村の家数三〇、南の端村滝沢たきざわ新田は二、この新田は寛文元年(一六六一)に開かれたという。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「田沢 四十六石三斗」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は三八本(津川旧記)。文政三年(一八二〇)の人馬改帳(佐藤一二氏蔵)には村高二五七石八斗余、漆木役三五本五分、家数三二・人数一六三、馬数一七とある。


田沢村
たざわむら

[現在地名]松代町田沢

北方を渋海しぶみ川が蛇行して流れ、川の両岸は断崖となる。東と北は犬伏いぬぶせ村、西は菅苅すがかり村と接する渓谷の村。初め集落は菅苅村境の高所大洞だいどうにあったが、近世初期に現在地へ移ったと伝える。旧家高橋家の墓石に元和二年(一六一六)銘のものがあり、移転は元和以前と推定される。正保国絵図では高二四石余。天和三年郷帳では高二七石七斗余、反別四町五反余・青苧畑三反余で、漆木九本。安永九年(一七八〇)の新田検地では高一五石八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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