甲賀寺(読み)こうかでら

日本歴史地名大系 「甲賀寺」の解説

甲賀寺
こうかでら

近江紫香楽しがらき(現滋賀県信楽町)造営された奈良時代の寺院。甲可寺とも記されたほか、金鍾こんしゆ寺ともよばれた。当初総国分寺として建立されたが、のち奈良東大寺が総国分寺として造営されることになったため、近江国分寺になったとする説が有力である。→近江国分寺跡瀬田廃寺

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔総国分寺〕

「続日本紀」天平一四年(七四二)二月五日条に、聖武天皇は恭仁くに(現京都府加茂町)から甲賀郡への道を開いたことがみえ、同年八月には紫香楽宮造営を開始した。翌一五年一〇月一五日には有名な大仏造顕の詔が出され、一九日条には「皇帝御紫香楽宮、為盧舎那仏像、始開寺地、於是行基法師率弟子等誘衆庶」とあり、大仏を安置する甲賀寺の造営が開始されたことが知られる。そののち紫香楽宮と甲賀寺の造営は着々と進捗したらしく、翌天平一六年一一月一三日条には「甲賀寺始建盧舎那仏像体骨柱、天皇親臨、手引其縄、于時種々楽共作、四大寺衆僧僉集、襯施各有差」とあり、甲賀寺の名が初めてみえ、大仏造営も本格化している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の甲賀寺の言及

【紫香楽宮】より

…742年(天平14)8月,都が恭仁京(京都府相楽郡加茂町)にあったとき,造宮卿の智努(ちぬ)王らに命じ近江国甲賀郡紫香楽村(滋賀県甲賀郡信楽町)に離宮を造らせたと《続日本紀》にあるのが初見で,信楽宮,甲賀(加,可)宮とも記す。743年10月,ここで盧舎那大仏造営の詔が出され,大仏を安置する甲賀寺は離宮に接して営まれたらしい。翌年2月,都は恭仁から難波に移った。…

※「甲賀寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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