古代寺院の塔,金堂(仏殿),講堂,中門,南大門,回廊,鐘楼(鼓楼),経蔵などの主要堂塔の配置を伽藍配置と呼ぶ。日本では法隆寺非再建説をとなえた関野貞が,塔と金堂が左右にならび,奥に講堂があり,中門から左右にのびる回廊がこれらをとりまく法隆寺式が最も古く,金堂の前に東西両塔がならぶ薬師寺式がこれに次ぎ,中門から出る回廊が金堂にとりつき,南大門との間に双塔を配する東大寺式,さらに南大門の南に双塔を配する大安寺式がこれに続くと説明した。しかし,1936年石田茂作の発掘で法隆寺西院境内南東部で若草伽藍の存在が明らかとなり,中門を入ると塔,そのうしろに金堂,さらに講堂が中軸線上にならぶ四天王寺式が法隆寺式伽藍配置より古く,7世紀初頭の配置形式であることになった。百済の扶余の発掘調査でも四天王寺式伽藍配置が一般的であることがわかり,この説が正しいかにみえた。ところが,56,57年の奈良国立文化財研究所の発掘で,日本最古の本格的寺院,飛鳥寺が塔の東西と北とに金堂を配する一塔三金堂の配置であることがわかり,またこの説を訂正する必要が生じた。さらに57,58年の同研究所の発掘で,7世紀中ごろにつくられた川原寺が塔と向かい合った西金堂と北に中金堂を配した一塔二金堂形式であることがわかった。その頃あいついで観世音寺と多賀城廃寺が塔と金堂が向かい合った伽藍配置を示すことがわかり,西に塔,東に金堂の法隆寺式や西に金堂,東に塔の法起寺(ほつきじ)式は,地方の氏寺に多いことなどが明らかとなってきた。8世紀に入ると中門から出た回廊が金堂にとりつき,金堂院の東または西に塔を配する伽藍配置が一般的となり,諸国国分寺もおおむねこの制に従っている。これは9世紀の平安京の東寺・西寺にまでも受け継がれる。8世紀には金堂の両側に塔を配した新治廃寺(茨城),三ッ塚廃寺(兵庫)のような変形もみられる。9世紀にはじまる比叡山,高野山のような密教寺院では,地形の制約から整然とした配置をとらなくなるが,その周辺や参道に面して僧侶の住房が数多くつくられ,中世を通じて各地の密教系寺院の原形となる。11世紀になると浄土信仰が盛んになり,京都岡崎の六勝寺,宇治平等院,平泉の諸寺など,園池を前にした阿弥陀堂を中心にした伽藍が流行して,日本的特色の濃い伽藍配置をつくりあげた。13世紀(鎌倉時代)に禅宗が導入されると,三門,蓮池,法堂(はつとう)などが前後一列に並ぶ伽藍配置が復活する。古代には,仏殿はその名のように仏像だけをいれる堂で,祀は堂前でおこなったが,雨の多い日本では礼堂を前に設ける双堂(ならびどう)がつくられ,さらに両者を一つ屋根で覆う縦深の本堂形式が発達し,これに僧侶の住む庫裡,鐘楼などが各宗派独自に配される今日全国に見られる寺院形式が定着していった。
中国に仏教が伝わった時期に,貴族の邸宅は正面の主殿に東西脇殿を配しており,その中庭に塔を建ててまつったので,一塔三金堂形式が初源的な伽藍配置であったろうとする説もあるが,雲岡その他の石窟寺院で釈迦と多宝仏の双塔を配する石窟の多いことから,薬師寺式も早くからつくられていた可能性が強い。近年ようやく寺院の発掘が手がけられるようになったので,今後の課題といわねばならぬが,門,仏殿,講堂が直線的に配された寺院が後までもつくられている。朝鮮半島に最も早く仏教の伝わった高句麗では,金剛寺(清岩里廃寺)のように一塔三金堂の伽藍配置が知られているが,南朝から仏教を学んだ百済では四天王寺式伽藍配置が最も多く,四天王寺式伽藍を三つ併設した益山弥勒寺のような例も知られている。高句麗から仏教が伝わった新羅では薬師寺式の双塔の伽藍が数多く知られているが,皇竜寺のように一塔三金堂形式でも三金堂を一列に南面してならべる例がみられる。
このように,伽藍配置の変遷はかつてのように直截に説明できなくなっているが,ここで重要なのは寺域(寺地)と伽藍地の問題である。伽藍地とはさきに挙げた主要堂塔の配された地域であるが,寺院は一個の独立した経営体で,寺院はその近傍あるいは各地に散在する寺領からの収入で維持された。これらの世俗的事務を処理する大衆院,その事務所である政所のほか,正倉はじめ各種の倉があり,境内の掃除や雑務をつかさどる大衆のほか奴婢の賤院や仏華や薬草を栽培する花園院,薬園院など,雑舎その他の付属施設が相当面積必要であった。これらの付属施設を含めた範囲が寺地で,寺地の諸建築の配置を考慮にいれると各寺院すべて個性的であり,現在主要堂塔の配置だけを問題とする伽藍配置論から脱却し,寺院建立にたずさわった僧侶の教学的解釈,施主の持つ財力による寺院の規模,占地などの各種の要素を総合的に考えて新たな研究の方向を見いだす時期にきている。
→寺院建築
執筆者:坪井 清足
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寺院において主要な堂塔を配置する際の方式。古代寺院では釈迦(しゃか)の仏舎利を祀(まつ)る塔を中心建物とし、飛鳥寺(あすかでら)ではその三方に仏殿を配し、それらを囲んで回廊が巡っていた。奈良の川原寺(かわらでら)では回廊内には塔と仏殿を左右に並べ、北にも回廊に接続して仏殿を配置している。一方、大阪の四天王寺では回廊内に塔と仏殿を南北に並べ、北には回廊に接続して講堂を配置している。法隆寺西院伽藍では川原寺と東西反対に仏殿と塔を並べ、回廊には仏殿が接続していない。このように飛鳥時代の伽藍配置は一塔三仏殿から一塔二仏殿、一塔一仏殿との変化が認められる。また、薬師寺にみられるような回廊内に二塔一金堂を配し、北は回廊に接続して講堂を置く配置も出現する。奈良時代になると、塔は回廊外に建てられるようになり、やがて二塔のうち一塔は省略される。平安時代になると、新しく天台(てんだい)、真言(しんごん)の2宗がおこり、山地での伽藍が形成される。これらの寺にあっては地形の制約上、一定の方式によらないものが多い。天台宗では講堂の前方左右に法華(ほっけ)、常行の両堂を配する例が多い。また、平安時代後期には浄土変相図に基づいた臨池伽藍が盛行する。鎌倉時代になって禅宗寺院が始まると、総門、三門、仏殿、法堂(はっとう)、大方丈を前後に並べる形式が五山格の大寺院にみられる。伽藍配置は時代や宗派によってそれぞれ変化が認められ一様ではない。
[工藤圭章]
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古代寺院の伽藍を構成する建物は,塔・金堂などの仏のための建物と,講堂・僧房などの人のための建物,廻廊・門などの仕切りとなる建物に大別できるが,これらの主要建物の配置を伽藍配置とよぶ。塔・金堂の配置による分類は,両者を廻廊で仕切った同じ空間におくものと別空間におくものに大別できる。前者には塔・金堂を前後に並べる四天王寺式,左右・右左に並べる法隆寺式・法起寺式,金堂の前に2基の塔を並べる薬師寺式などがある。後者には塔が1基のもの(興福寺式),2基のもの(東大寺式)などがある。仏と人の空間を仕切る方法による分類は,講堂が廻廊の外にあり人のための建物が独立するもの,廻廊が講堂にとりつき人と仏のための建物が接続するもの,といった空間の利用方法に依拠する。時代が下るほど,塔が伽藍の中心部から遠ざかり,仏と人の建物が接続して密接な関係をもつ傾向がある。
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…建物の配置は中国の建築が縦深的配置をとるのに対し,日本のものは並列的,平面的である。最古の伽藍配置を有する四天王寺が中門,塔,金堂,講堂が一直線上に並ぶ大陸に由来するものであるのに対して,すでに法隆寺の配置は中門の左右後方に塔と金堂とがあり,その間を通して講堂を見ることができる。全部の建物が一望のもとに見られるというパノラマ的配置は,後の寝殿造,書院造においても,また浄土宗,真宗寺院などにも見られ,日本建築の配置の特殊性を示している。…
…都市における造寺,造仏も《洛陽伽藍記》などに記されるように盛大をきわめた。日本における飛鳥時代の寺院は,塔を中心に中門,金堂,講堂が一直線につらなり,これを回廊が囲む伽藍配置(四天王寺式)であり,これは高句麗,百済,新羅の寺院址に類例がある。一方,日本最古の飛鳥寺は,塔の周囲に三面金堂をめぐらす特殊なものであるが,これも高句麗の清岩里廃寺に遺例があり,朝鮮との緊密な関係がうかがわれる。…
※「伽藍配置」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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