紫香楽宮(読み)しがらきのみや

日本歴史地名大系 「紫香楽宮」の解説

紫香楽宮
しがらきのみや

甲賀郡紫香楽村に造営された聖武天皇の宮都。史料には甲賀宮・甲可宮ともみえる。「続日本紀」天平一四年(七四二)二月五日条に「是日、始開恭仁京東北道、通近江国甲賀郡」、同年八月一一日条には「詔曰、朕将幸近江国甲賀郡紫香楽村、即以造宮卿正四位下智努王、輔外従五位下高岡連河内等四人、為離宮」とあって、恭仁くに(現京都府相楽郡加茂町)にあった聖武天皇が、いまだ大極殿も完成しないにもかかわらず新たに紫香楽村に離宮の造営を開始したことが知られる。聖武天皇は同年八月二七日を最初に、一二月二九日・翌一五年四月三日とたびたび紫香楽宮に行幸し、滞在もしだいに長期化している。同年七月二六日の行幸は一一月二日までの長期にわたり、この間九月二一日には甲賀郡の調・庸を畿内に準ずること、当年田租を免ずることを命じている。また一〇月一五日には大仏造顕の詔を出し、翌一六日条には「東海東山北陸三道廿五国今年調庸等物皆令於紫香楽宮」とみえる。一九日には盧舎那仏像を安置すべく寺地(甲賀寺)を開くことが命じられた。

「続日本紀」天平一五年一二月二六日条に「初壌平城大極殿并歩廊、遷造於恭仁宮年於、其功纔畢矣、用度所費不勝計、至是更造紫香楽宮、仍停恭仁宮造作焉」とあるように、紫香楽宮造営に傾注することになり、この頃から紫香楽宮を単なる離宮ではなく、皇都とする意図が明確化したといえる。ところが翌一六年二月二四日紫香楽宮に行幸した聖武天皇は、二六日に正月以来課題となっていた皇都問題について、難波なにわ(現大阪市東区)を新しく皇都とすることに決定した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紫香楽宮」の意味・わかりやすい解説

紫香楽宮
しがらきのみや

聖武(しょうむ)天皇の宮の一つ。信楽宮とも書き、甲賀宮(こうがのみや)ともいう。宮地は、滋賀県甲賀(こうか)市信楽町牧・黄瀬(きのせ)にある「甲賀寺跡」の一帯と、それよりやや北に位置する宮町地区にある「宮町遺跡」からなる。国指定史跡。「甲賀寺跡」からは古瓦や礎石などが発見され、伽藍(がらん)配置などがうかがえる。近年、発掘調査が進んだ「宮町遺跡」からは、巨大建築の列柱跡や木簡(もっかん)などが出土、ここに内裏があったと推定され、近隣の関係遺跡群とともに紫香楽宮の姿が明らかになりつつある。740年(天平12)の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を契機に745年まで都は平城を離れた。聖武天皇は、まず山城(やましろ)国恭仁(くに)に遷都し、742年近江(おうみ)国甲賀郡への東北道が開通すると、8月紫香楽に離宮をつくって、前後5回行幸した。翌年東国の調庸物を紫香楽宮に納め、東大寺大仏の前身にあたる盧舎那仏(るしゃなぶつ)の建立がこの地で始まった。744年いったん難波(なにわ)を都としたにもかかわらず、紫香楽に行幸、翌年5月の平城還都まで滞留した。「新京ニ遷(うつ)リ宮室ヲ造ル」と、紫香楽宮は実質的に皇都となった。めまぐるしい遷都の背後に橘諸兄(たちばなのもろえ)、藤原仲麻呂(なかまろ)らの政権抗争があった。宮は廃止後、国分寺に転用した。

[八木 充]

『八木充著『古代日本の都』(講談社現代新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「紫香楽宮」の意味・わかりやすい解説

紫香楽宮 (しがらきのみや)

奈良時代の聖武天皇の離宮で,一時ここに都が置かれた。742年(天平14)8月,都が恭仁京(京都府木津川市)にあったとき,造宮卿の智努(ちぬ)王らに命じ近江国甲賀郡紫香楽村(滋賀県甲賀市の旧信楽町)に離宮を造らせたと《続日本紀》にあるのが初見で,信楽宮,甲賀(加,可)宮とも記す。743年10月,ここで盧舎那大仏造営の詔が出され,大仏を安置する甲賀寺は離宮に接して営まれたらしい。翌年2月,都は恭仁から難波に移った。3月,平城京金光明寺の《大般若経》を紫香楽宮大安殿に運び転読して離宮の安泰を祈る。4月に紫香楽周辺でおきた山火事は離宮や大仏の造営に不満な勢力がしかけたものらしく,こうしたなかで11月に甲賀寺で大仏の体骨の柱が建てられた。このころ都は難波から紫香楽に移され,《続日本紀》に遷都の記事を欠くが,翌745年元旦の記事では紫香楽宮の地が都となっている。しかしやがて5月11日,都はここから平城京にかえされ,大仏造営は平城京の金鍾寺で再開され,これがのち東大寺となる。

 いっぽう〈甲賀宮国分寺〉の名が天平勝宝3年(751)《奴婢見来帳》にみえる。旧信楽町雲井に残る礎石群は紫香楽宮跡と呼ばれるが,伽藍配置(東大寺式の変形)の跡を示し,中門跡の北に金堂,講堂,僧房,小子房跡があり,中門跡から回廊跡が東西にのび,北に折れ鐘楼,経楼跡に結び,これらの伽藍跡の東に塔院(中門,塔,回廊)跡があり,小子房跡の東は食堂跡らしい。以上の雲井遺跡と紫香楽宮,甲賀寺,甲賀宮国分寺の関係について諸説がある。肥後和男は,遺跡は甲賀宮を近江国分寺とした寺跡で,甲賀寺は747年ころ廃され,その寺跡は丘陵の中にあるといい,柴田実は,遺跡は甲賀寺すなわち甲賀宮国分寺跡で,甲賀宮跡の発見の困難から推せば,もと宮寺一体であったかとする。ほかの見方も可能で,遺跡は朱雀門,朝堂,大安殿跡とみえないから,寺と宮は別で,宮跡は遺跡の近くのどこかにあり,遺跡は甲賀寺が国分寺とされた寺跡で,甲賀宮の近くに営まれたため甲賀宮国分寺とよばれたとも考えられる。
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百科事典マイペディア 「紫香楽宮」の意味・わかりやすい解説

紫香楽宮【しがらきのみや】

奈良時代の皇居(史跡)。滋賀県甲賀市信楽(しがらき)に史跡がある。740年の藤原広嗣の乱に衝撃をうけた聖武天皇は,平城京を去って恭仁京(くにきょう),次いで紫香楽宮に静養した。743年,この地で大仏建立に着手したが成らず,都は恭仁京から難波(なにわ)京に移された。
→関連項目信楽[町]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紫香楽宮」の意味・わかりやすい解説

紫香楽宮
しがらきのみや

聖武天皇の天平 17 (745) 年1~5月の皇居。滋賀県甲賀市に遺跡がある。天皇は同 13年平城京から恭仁京 (くにきょう) に遷都,翌年8月紫香楽に離宮を造営し,次いでこの地に大仏鋳造を計画した。同 15年造宮費用の不足から恭仁宮造営をあきらめた天皇は,紫香楽宮の造営を計画したが,一転して翌年難波遷都に踏み切った。その後,同 17年再び紫香楽遷都が議に上り,ついに1月皇居をここに移した。しかし紫香楽は山間にあり,帝都としては不適当であるうえ,再三の造宮に人心も穏やかならず,天変も加わって不安が増し,5月再び平城京還都を決定した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紫香楽宮」の解説

紫香楽宮
しがらきのみや

信楽宮・甲賀宮とも。近江国にあった聖武天皇の宮。742年(天平14)聖武天皇は離宮を造営し,以後しばしば行幸し,翌年には当地で大仏の造営を発願する。744年11月には難波から元正太上天皇を迎えて実質的な遷都となるが,大仏造営に対する反発から盗賊・放火が頻発し,745年5月には平城京へもどる。宮跡は現在の滋賀県甲賀市信楽町宮町付近に比定され,国史跡

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旺文社日本史事典 三訂版 「紫香楽宮」の解説

紫香楽宮
しがらきのみや

奈良時代,聖武天皇が一時遷都した都
「信楽宮」とも書き,甲賀宮ともいう。現在の滋賀県甲賀郡信楽町。740年の藤原広嗣の乱後,皇居を恭仁 (くに) 京に移した天皇は,742年紫香楽の地に離宮を造ってしばしば行幸し,翌743年にはこの地で大仏造立を発願。745年1月ここを都としたが,不評のため同年5月平城京に帰った。

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事典・日本の観光資源 「紫香楽宮」の解説

紫香楽宮

(滋賀県甲賀市)
湖国百選 街道編」指定の観光名所。

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