朝日日本歴史人物事典 「畠山勇子」の解説
畠山勇子
生年:慶応1.1.2(1865.1.28)
明治時代の憂国の人。大津事件でロシアとの国交が悪化するのを憂慮し,自らの死をもって国の危急を訴えた。安房国長狭郡(千葉県)生まれ。父治兵衛の没後,家運が傾き,17歳で若松吉蔵に嫁いだが,23歳のとき離婚。勤王の侠商として知られた伯父榎本六兵衛を頼って上京した。万里小路家,横浜の実業家原六郎家,日本橋区室町の魚商の奉公人となったが,国政に関心を寄せ,国史や政治小説を愛読。周囲からは変人と目された。明治24年(1891)5月に大津事件が勃発すると,悲憤慷慨し,急用で故郷に帰らねばならないといって暇をとり,伯父を訪ね,翌朝新橋発2番列車に乗った。同月20日京都に着くと,本願寺などを詣で,同日午後7時すぎに京都府庁の門前で国を憂慮する気持ちをしたためた遺書を残して腹と喉を切って自殺した。<参考文献>大植四郎編『明治過去帳』,尾佐竹猛『大津事件』
(関井光男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報