(井上勲)
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幕末の幕府官僚。幕府海軍の創設や大政奉還の起草に尽力。1816年(文化13)三河奥殿藩主松平乗尹(のりただ)の庶子に生まれ、旗本永井家の養子となる。1848年(嘉永1)の学問吟味で甲科上の褒詞をうける。1853年目付となり、長崎勤務中の1855年(安政2)オランダ国王から贈られた観光丸を用いた海軍伝習の監督となる。1857年観光丸で帰府。築地に開かれた軍艦操練所を監督する。勘定奉行、外国奉行、軍艦奉行と転じ、安政の大獄で一時失脚するが、1862年(文久2)軍艦役頭取に復職し、同年京都町奉行となる。1865年(元治1)第一次長州遠征(長州征伐)で毛利氏の処罰をめぐり孤立して辞職。1865年(慶応1)第二次長州遠征のときに大目付に復職した。1867年若年寄格となる。1868年(明治1)蝦夷地に渡り新政府に抵抗。1869年降伏し入獄するが、1872年赦免。新政府に仕え、開拓使用掛、左院少議官、元老院権大書記官を経て、1876年退職した。1891年7月1日死去。76歳。墓は東京都荒川区の本行寺。自伝に『永井介堂君履歴稿本』がある。
[上白石実]
幕末の開明的幕臣で幕府海軍の創設者の一人。通称岩之丞。三河国奥殿藩主松平乗尹の子として生まれ,旗本永井氏の養子となる。洋式海軍の技術に通じ,開明的能吏として活躍し,1858年(安政5)初代外国奉行,59年には初代軍艦奉行となる。その後一橋派の一員として安政の大獄に連座したが,慶喜政権成立とともに抜擢(ばつてき)されて大目付,若年寄に進み,幕府最後の近代的改革に尽力した。維新後は開拓使御用掛,左院少議官,元老院権大書記官等を務めた。
執筆者:桂島 宣弘
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1816.11.-~91.7.1
名は「なおむね」とも。幕末期の幕臣。父は三河国奥殿藩主松平乗尹(のりただ)。永井家の養子。長崎目付から1855年(安政2)長崎海軍伝習所総督となり,軍艦操練所監督・外国奉行・軍艦奉行を歴任したが井伊直弼政権で左遷。64年(元治元)大目付となり,京都政局で活躍。長州戦争で萩藩側との交渉にあたる。67年(慶応3)若年寄格となり,大政奉還の上表文を起草。鳥羽・伏見の戦後江戸へ脱出,榎本武揚らと行動をともにした。降伏後,開拓使用掛・左院少議官・元老院権大書記官などを勤め,76年(明治9)隠居。
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…ついで箱館府知事清水谷公考を青森へ敗走させ,松前城を陥れ,藩主松前徳広を津軽へ逃走させた。12月15日,榎本は総裁に就き,松平太郎副総裁,荒井郁之助海軍奉行,大鳥圭介陸軍奉行,永井尚志箱館奉行,人見勝太郎松前奉行,土方歳三陸軍奉行並などからなる蝦夷島政権を樹立し,箱館の堅塁五稜郭を本営とした。旧幕軍は,この政権を,諸外国に,交戦権を持つ独立政権と認めさせ,局外中立をとらせようとしたが,やがて局外中立は撤廃された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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