バスケットボール(読み)ばすけっとぼーる(英語表記)basketball

翻訳|basketball

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バスケットボール」の意味・わかりやすい解説

バスケットボール
ばすけっとぼーる
basketball

5人ずつのプレーヤーからなる2チームによって行われる球技。チームの目的は「相手チームのバスケット(ゴール)に得点する(ショットを成功させる)こと」と、「相手チームが得点することを防ぐこと」によって、得点の多少を競う。ボールは手で扱い、ボール保持者はドリブル以外の方法で移動できない。ルールに従う限り、どのような方向にもパスし、スローし、たたき(タップ)、転がすことができる。発祥当初からゴールに「かご」(バスケット)を用いたので、漢字の「籠(かご)」を用いて籠球(ろうきゅう)と表記したが、一時期、「籃(かご)」をあてた籃球(らんきゅう)という表記も使われた。

 多くのスポーツが自然発生的な遊びから始まり、ルールが漸次付け加えられて競技となり発展していったのに対し、バスケットボールはアメリカのネイスミスJames Naismith(1861―1939)の創意工夫により生まれたゲームである。

 1891年以降、ルールの改廃増補を繰り返しながら競技スポーツとして高度化していくのに並行して、広く一般の人々にも「するスポーツ・見るスポーツ」として親しまれ、今日の世界的な隆盛を迎えるに至った。

[水谷 豊 2019年8月20日]

歴史

発祥

1890年代初頭のアメリカのスポーツ界では、春から秋まではもっぱら野球やアメリカンフットボール、サッカーなどのチームスポーツが行われていた。しかし、冬に屋外で続けるのは支障が生ずるので、体育館種目に切り替えられたが、チームスポーツで味わえる面白さや楽しさを備えた種目がなかった。そういう状況のなかで、1885年にYMCAのスタッフの養成や研修を目的として創設された国際YMCAトレーニングスクール(現、スプリングフィールド大学)で中心を担っていたギューリックLuther H. Gulick(1865―1918)は、教員のネイスミスに新しいチームゲームの考案を命じた。ネイスミスは当時もっとも人気があったアメリカンフットボールなどの球技の特徴を検討して、「(1)軽くて、両手で持てる程度の大きさのボールを使用する、(2)ボールを保持したまま移動することを禁止する、(3)ゲーム中はいつでも両チームのだれでもボールを扱うことができる、(4)両チームはコート内のどこでプレーしてもよい。ただし、身体接触は禁止する」という骨子を考え出した。

 そして、少年時代に行っていた「岩の上の鴨(かも)」duck on the rockという「的あて遊び」をヒントにして、「頭上に設けられた水平のゴールにショットしあう」という新しい形式のチームゲームを考案した。同時に、違反行為やゲームの進行に関する13条からなるルールも作成した。

 1891年12月にネイスミスの授業で18人の学生が9対9に分かれて、史上初のゲームを行った。ゴールには桃の収穫用の籠(バスケット)、ボールはサッカーボールを用いた。ここから、学生のアイデアで「バスケット・ボール」basket ballという名称が生まれ、1921年に今日のような一語表記のバスケットボールbasketballとなった。最初に設けられたゴールの高さは3.05メートル(10フィート)であり、以来この高さは一度も変更されていない。

 1892年、ネイスミスは同スクールの機関誌『トライアングル』に「Basket Ball」と題して詳しく紹介した。この機関誌は各地のYMCAに送られていたので、全米のYMCAがこの新しい「ボールを用いて行うチームゲーム」に飛びついた。結果的にYMCAが拠点となってこのゲームは全米に伝わっていった。そして、同スクールの卒業生が世界各国のYMCAに赴任して、紹介と普及に努めたので国際的にも急速に伝播(でんぱ)した。

[水谷 豊 2019年8月20日]

世界への普及

1927年にスイスのジュネーブに国際YMCA体育学校が開設され、同校がいわばヨーロッパにおけるバスケットボールの「窓口」の役割を果たした。1932年にはスイスとイタリアが中心となって、国際バスケットボール連盟(FIBA:Fédération Internationale de Basketball Amateur)がアルゼンチンチェコスロバキア、ギリシア、イタリア、ラトビア、ポルトガル、ルーマニア、スイスの8か国によって結成された。1936年のオリンピック・ベルリン大会から男子の公式種目となり、女子は1976年のオリンピック・モントリオール大会から種目に加えられた。FIBA世界選手権大会(2014年大会以降、ワールドカップに名称変更)は男子が1950年、女子が1953年からそれぞれ開催されている。

 FIBA結成から85年経過した2018年時点の加盟国・地域は、水泳(FINA)、サッカー(FIFA)、バレーボール(FIVB)などと肩を並べる213に達し、グローバルな人気スポーツの一つとなった。

 FIBAは2004年から、オリンピックと同様に世界を5ゾーン(Z)に分けており、2018年の時点でアフリカ54、アジア44、オセアニア22、アメリカ43、ヨーロッパ50の国・地域が加盟している。各Zはオセアニアを除き、サブゾーン(SZ)に分けられている。アジアZの場合、日本が属している東アジアSZは8か国・地域、東南アジア10、南アジア8、中央アジア5、西アジア7、湾岸アジア6となっている。FIBAワールドカップとオリンピックにはナショナルチームによるゾーン予選を勝ち抜く出場権獲得方式が適用されている。

[水谷 豊 2019年8月20日]

日本への移入・変遷

国際YMCAトレーニングスクールを卒業した大森兵蔵(ひょうぞう)(1876―1913)が1908年(明治41)に帰国して、東京YMCAなどに初めて本格的に伝えた。その後、1913年(大正2)11月、日本YMCA同盟の依頼を受けて来日した北米YMCA同盟のブラウンFranklin H. Brown(1882―1973)が、神戸、大阪、京都、東京、横浜などの各YMCAで新たに紹介と指導を重ねた。これが実質的な普及・定着の契機となった。1917年、第3回極東選手権競技大会が日本で開催され、日本も初めてバスケットボール種目に出場することになり、京都YMCAチームが日本代表となって出場した。1921年から始まった全日本総合選手権では、東京YMCAが3連覇を果たすなど、草創期はアメリカの場合と同様にYMCAの貢献が大きかった。

 そして、ブラウンに手ほどきを受けた大学生たちのチームが台頭し、1924年に立教、早稲田(わせだ)、東京商科(現、一橋(ひとつばし))の3大学が学生連盟を結成してリーグ戦を始めた。しだいにYMCAから学生連盟に主導権が移り、1930年(昭和5)にはおもに関東大学リーグで活躍した卒業生たちなどによって、「大日本バスケットボール協会」が設立された。

 その後、全国で諸大会が始められて、さらに普及と定着が進んだ。また、大学チームの海外遠征や国際交流も活発に行われ、1936年にはバスケットボールが初めて男子公式種目となったオリンピック・ベルリン大会に出場し、参加14か国のうち第9位となった。

 第二次世界大戦による空白のあと、大日本バスケットボール協会は1945年(昭和20)に「日本バスケットボール協会」として復活し、1950年にはFIBAに復帰加盟した。同年、ハワイ日系二世チームが来日した際に、片手ショットや高度のドリブルなど、当時のアメリカの最新の技術を学び取ったことが、競技水準向上の契機となったとされる。

 1955年ごろを境に、主流は学生から実業団に移り始めた。男子では、1949年からすでに国内諸大会を通して日本鋼管(現、JFEホールディングス)が94連勝を果たしていたが、1957年から全日本総合選手権で日本鋼管が6年連続優勝するなど、上位を実業団が占めていく。女子でも1964年からニチボー平野(その後ユニチカ山崎を経てユニチカ。2004年に解散)が国内諸大会を通して171連勝を遂げるなど、やはり上位を実業団が占めた。その後、アジア競技大会、オリンピックや世界選手権などの国際大会にも出場するようになった。

 1964年のオリンピック・東京大会以降、小学生(ミニ・バスケットボール)、障がい者(車いすバスケットボール)、家庭婦人、教員、教員養成系大学など、プレー層と大会ともに多様化した。

 1967年、実業団チームで構成する男女の「日本リーグ」が発足し、日本のバスケットボールの頂点となる。その裾野(すその)に日本リーグ以外の実業団、さらに大学、高校、中学校、小学校、その他のクラブチームなどが連なるバスケットボール界が形成された。1995年(平成7)には、日本バスケットボール協会(JABBA)の管轄下の「バスケットボール日本リーグ機構(JBL:Japan Basketball League)」が設立され、翌1996年に「日本リーグ」がJBLに移管された。女子も1998年に「女子バスケットボール日本リーグ機構(WJBL:Women's Japan Basketball League)」が設立され、女子の「日本リーグ」はWJBLに移管された。その後、男子は2007年(平成19)にJBAから離脱して「日本バスケットボールリーグ」(略称は同じくJBL)として再組織された。その実態はあくまでもチーム保有企業の福利厚生活動の一環で、プレーヤーは勤務を伴う会社員という「アマチュアプレーヤー」のチームとリーグであった。女子のWJBLもJBAから離れて、「バスケットボール女子日本リーグ」と改称したが、実態はJBLとほぼ同じであった。

 日本がこのような状況のころ、海外ではプロ化へ向かって変化しつつあった。1989年にプロクラブチームのリーグのNBA(National Basketball Association、アメリカプロバスケットボール協会)プレーヤーがFIBAの開催する大会への参加を許されることになった。つまり、FIBAは1932年の創設以来の「アマチュア限定」から「プロ容認」へと舵(かじ)をきったからである。これを受けて、1992年のオリンピック・バルセロナ大会に初めてNBAプレーヤーで編成された「ドリームチーム」がアメリカ代表として出場した。このときの圧倒的な迫力は世界のバスケットボール界に大きなインパクトを与えた。もっとも顕著だったのはアマチュアとプロの区別が消滅しつつあるなか、各国にプロプレーヤーを含む(あるいは全員がプロプレーヤーの)クラブチームが次々と生まれ、プロリーグが立ち上げられたことである。

 この世界的流れが日本に波及し始めたのは、かなり経過してからだった。2007年、ようやく日本バスケットボール協会の英語表記の略称がJABBA(日本アマチュアバスケットボール協会)からJBA(日本バスケットボール協会)に変わった(アマチュア・バスケットボールを意味していたABを削除)。JBLもWJBLも外国のようにプレーヤー個人の立場でチーム保有企業に所属する「契約社員」(所属企業において社員としての勤務を課されない事実上のプロプレーヤー)が出てきた。また、所属企業での勤務を伴わない外国人プロプレーヤーも採用されるようになった。さらに、従来の企業保有型チームではなく、チーム全体が単独営利団体となり、収益活動を伴う運営会社型チームも生まれ始めた。

 2007年に日本バスケットボール協会(JBA)から離脱したJBL(日本リーグ)がセミプロリーグの新JBLとなった。さらに、2013年から、外国と同じくプロリーグを構想して、トップリーグと位置づけたNBL(ナショナルバスケットボールリーグ)が発足した。しかし、その実態は「プロ化」の遅滞だった。

 一方、2005年にbjリーグ(日本プロバスケットボールリーグ)が6チームで発足した。NBAの特長を日本的に生かした初のプロリーグだった。これに対して、JBAはbjリーグを傘下組織から分離したが、2016年、NBLとbjリーグは統合されて、新たなプロリーグのJPBL(ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ。通称、Bリーグ〈B.LEAGUE〉)が発足した。2019年時点で、全チームはディビジョンⅠ(18)、Ⅱ(18)、Ⅲ(10)に類別されている。女子のWJBLは発足以来ほぼ企業保有型チームで構成されている。以前、チーム保有企業の「契約社員」としての外国人プレーヤーの雇用・出場も認めていたが、現在は「撤廃」している。

[水谷 豊 2019年8月20日]

世界の動向と日本

アメリカでは1946年に東部と中西部にプロリーグがあった。同年にこの二つが合併して、新たに11チームによるBAA(Basketball Association of America)となった。1949年にはチーム数が17に増え、名称も今日のNBAと改め、やがて世界最高のプロリーグとなった。2019年時点で、全米をイースタン・カンファレンス(大西洋沿岸、南東部、中央部の3地域)、ウェスタン・カンファレンス(太平洋沿岸、北西部、南西部の3地域)に分け、その各都市に30チームがフランチャイズを置いている。レギュラーシーズンでは各チームがホーム&アウェーで82ゲーム行う。アメリカンフットボール(NFL)、野球(MLB)、アイスホッケー(NHL)と並ぶ超人気プロスポーツリーグで、30チームの1試合当り平均観戦者数は1万7000~2万1000人(2018~2019年シーズン)に上っている。

 他方、1992年のオリンピックへのNBAドリームチームの登場は「アマチュアとプロの一体化」が「プロプレーヤーで構成するクラブチームおよび国内リーグの誕生」を促進し、それが「プロ化された国内リーグから選抜したプロプレーヤーでナショナルチームを編成」するという流れをつくった。FIBAは「オリンピックとワールドカップはナショナルチーム」で戦うとしているので、いやがうえにも、自国プロリーグの強化・育成は絶対的な課題となった。

 日本男子でNBA参加への先駆けとなったのは田臥勇太(たぶせゆうた)(1980― )である。2003年にデンバー・ナゲッツと契約したものの開幕メンバーから漏れたが、2004年にフェニックス・サンズの開幕メンバーに入り、日本人初のNBAプレーヤーとなった。渡邊雄太(わたなべゆうた)(1994― )と八村塁(はちむらるい)(1998― )はアメリカのNCAA(全米大学体育協会)傘下の有力大学チームで活躍後、渡邊は2018年に、八村は2019年にNBA入りを果たした。

 また、1978年に14チームが加盟したアメリカのWBL(Women's Basketball League)が世界最初の女子プロリーグとされるが、わずか3シーズンで消滅した。それから15年たった1996年のオリンピック・アトランタ大会で、開催国アメリカの女子代表チームが金メダルを獲得したことにより、女子バスケットボールはアメリカ国内で再認識された。それを背景に、まずABL(American Basketball League)と称する9チームからなる新生プロリーグが同年10月に登場し、滑り出しは順調だったが2シーズンで終了した。ついで、1997年6月に8チームからなるWNBA(Women's National Basketball Association)という、NBAの支援を受けた二つ目のプロリーグが登場した。なお、アメリカよりも早く始まっていたヨーロッパにおける女子プロリーグが、かつては、大学卒業後もなおプレーを望むアメリカの優れたプレーヤーが活躍する場(受け皿)となっていたが、それらの選手たちも母国(アメリカ)に戻り、WNBAのレベルをいっそう引き上げた。現在はウェスタン・カンファレンスとイースタン・カンファレンスにそれぞれ6チームが所属し、1ゲームの平均観戦者数はおおむね7000~8000人に上っている(2018年シーズン)。ナショナルチームの主力メンバーを輩出し、アメリカチームによる女子FIBAワールドカップとオリンピックの連覇を支えている。

 WNBAは早くから外国人プレーヤーとも契約しているが、日本からは1997~1998年シーズンにサクラメント・モナークスとフェニックスマーキュリーでプレーした萩原美樹子(はぎわらみきこ)(1970― )が初のプレーヤーとなった。2007年、大神雄子(おおがゆうこ)(1982― )がWNBAのフェニックス・マーキュリーと契約、日本人二人目のWNBAプレーヤーとなった。さらに、渡嘉敷来夢(とかしきらむ)(1991― )が三人目となり、2015年にシアトル・ストームと契約を結び、同シーズンのWNBA新人ベスト5にも選出された。

[水谷 豊 2019年8月20日]

世界のプロリーグの状況

1998年のオリンピック・バルセロナ大会以降、各国にプロリーグが結成されていった。たとえば、2019年時点でFIBA世界ランキング10位までの国には、アメリカ・ゾーンの「NBA」とアルゼンチンの「バスケットボール・ナショナル・リーグ」、ヨーロッパ・ゾーンのスペインの「エンデサ・リーグ」、フランスの「ナショナル・プロバスケットボール・リーグ」、セルビアとスロベニアなどの「アドリアテイック・バスケットボール・リーグ」、リトアニアの「リトアニア・バスケットボール・リーグ」、ギリシアの「ギリシア・バスケットボール・リーグ」、クロアチアの「A1リーグ」、ロシアの「ロシア・バスケットボール・スーパー・リーグ」などがある。また、アジア・オセアニア・ゾーンのFIBAランキング5位まででは、オーストラリアの「ナショナル・バスケットボール・リーグ」、イランの「イラニアン・バスケットボール・スーパー・リーグ」、中国の「チャイニーズ・バスケットボール・アソシエーション」、フィリピンの「フィリピン・バスケットボール・リーグ」、韓国の「韓国バスケットボール・リーグ」がある。アフリカ・ゾーンでもFIBAランキング1位のナイジェリアには「ナイジェリア・プレミア・リーグ」がある。

 上記以外のFIBA加盟国もそれぞれ自国リーグを有しており、たとえばアジアのサブゾーンでは東南アジア(タイ・インドネシアなど)、南アジア(インド)、中央アジア(カザフスタン)、西アジア(ヨルダン、レバノンなど)、湾岸(カタール、サウジアラビアなど)が設けている。

 女子は全体的には男子ほどではない。2018年時点でFIBA世界ランキング10位まででは、カナダ、ブラジルを除くアメリカ、スペイン、オーストラリア、フランス、トルコ、中国、セルビア、日本がプロリーグを有している。また、アジア・オセアニア・ゾーンのFIBAランキング5位まででは、韓国が有しているが、チャイニーズ・タイペイは設けていない。このほか、ゾーン・ランキングでは、アフリカ2位のナイジェリア、3位のアンゴラにはそれぞれ「女子バスケットボール・リーグ」がある。また、アメリカ6位のプエルト・リコ、アジア・オセアニア6位のニュージーランド、7位のインドなどが有している。さらにヨーロッパ・ゾーンは所属チームが多いので、5位のロシア、6位のチェコなど、他のゾーンよりもプロリーグが多い。

[水谷 豊 2019年8月20日]

日本チームの実力と世界のレベル

2019年2月時点で、日本男子はアジア・オセアニアゾーンのなかでは7位(FIBAランキングは48位)となっており、中東勢などの著しい台頭のなかで、近隣の中国、韓国に離され、また、オセアニア勢とはかなりの差がある。日本女子はアジア・オセアニアゾーンのなかではオーストラリア、中国に次ぐ3位(FIBAランキングは10位)であり、アジアでも世界でも男子の順位をはるかに上回っている。

 男子は、バスケットボールが初めてオリンピックの公式種目となった1936年のベルリン大会に参加後、1956年メルボルン大会以降、1976年のモントリオール大会まで5大会に出場したが、それ以降は予選(アジア選手権)段階での敗退が続き、40年以上不出場が続いた。また、FIBAワールドカップには1963年ブラジル大会に初めて出場したが、13チーム中の最下位、それ以降もふるわず、日本で開催された2006年大会は24チーム中の20位に終わった。このように低迷が続いていたが、2017年に長く続いた「一度の選手権大会兼予選」から、ゾーン所属国をグループ分けしてホーム&アウェー戦で順位を競い、各ゾーンに割り当てられている「本戦出場資格争奪式」に変更された予選を勝ち抜き、2019年の中国大会への通算5回目の出場が決まった。さらに、オリンピックの2020年東京大会(2021年開催)への出場も決まり、久々の世界レベル復帰に注目が集まった(結果は13チーム中12位)。

 女子は、オリンピック正式種目となった1976年モントリオール大会に参加(6チーム中5位)したが、その後は出場を逸していた。しかし、1996年アトランタ大会に20年ぶり2回目の出場を果たし、12チーム中7位となったのに続き、2004年のアテネ大会、2016年のリオ・デ・ジャネイロ大会にも出場した。FIBAワールドカップには1964年以降ほぼ毎回出場しており、1975年大会には準優勝するなど、1970年代までは世界の五指に入る勢いを維持していたが、1980年代以降は(1998年、2018年大会の9位を除き)10位以下に甘んじていた。しかし、2021年に開催されたオリンピック・東京大会では12チーム中2位と躍進。男女を通じて初めてのメダルを獲得した。2021年12月6日現在のFIBAランキングは8位となっている。

[水谷 豊 2022年2月18日]

施設・用具

FIBAおよびJBAのバスケットボール競技規則、施設・用器具規格によれば、プレーイングコートは障害物のない長方形の平面とし、縦28メートル、横15メートルとする。コートの大きさは幅5センチメートルの境界線(バウンダリ・ライン)の内側で測る。天井の高さは少なくとも床から7メートルなければならない。また、観客席は2メートル以上離れていなければならない。

 バックボードは透過性の素材で単一体とする。透明でない場合は表面を白く塗る。大きさは水平方向1.80メートル、垂直方向1.05メートルで、幅5センチメートルの線で縁どるとともに、バスケット・リングの真後ろに幅5センチメートルの線で長方形を描く。この大きさはその外側で水平方向59センチメートル、垂直方向45センチメートルとし、底線の上縁はリングと同じ高さにする。線の色は透明なバックボードの場合は白、その他の場合は黒を標準とする。プレーヤーの負傷を防ぐために、バックボードの下縁と支柱にはパッドで覆いをする。

 バスケットは内径45~45.9センチメートルのオレンジ色に塗られた鋼鉄製のリング(太さは直径1.6~2センチメートル)と、リングの周囲に取り付けた長さ40~45センチメートルの白い紐(ひも)製のネットとする。リングは上端が床から3.05メートルの高さとする。ミニバスケットボールでは2.60メートルとする。

 ボールは表面が天然皮革、人工・合成皮革、ゴムとする。大きさは、男子全カテゴリー用が周囲74.9~78センチメートル(7号球)、重さ567~650グラムとする。女子全カテゴリー用は周囲72.4~73.7センチメートル(6号球)、重さ510~567グラムとする。

[水谷 豊 2019年8月20日]

競技方法

FIBAおよびJBAのバスケットボール競技規則によれば、最初に両チームの各5人のプレーヤーがそろっていないと、ゲームを始めることはできない。ゲームに出場できるプレーヤーの数は1チーム12人以内である。ただし、国内のゲームでは12人を超えてもよい。プレーヤーは回数に制限なく交代できる。

 ゲームは1クォーターを10分間とし、1試合4クォーターを行う。中学校のゲームは、8分のクォーターを4回行う。第1クォーターと第2クォーター(前半)の間、第3クォーターと第4クォーター(後半)の間および各オーバータイム(延長戦)の間に2分間のインターバルを設け、前半と後半の間(ハーフタイム)は15分または10分間とする。

 チームは前半(第1・2クォーター)に2回、後半(第3・4クォーター)に3回、各オーバータイムに1回ずつ、1分間のタイムアウト(コーチあるいはアシスタントコーチの請求によるゲームの中断)が認められる。

 得点はスリー・ポイント・フィールド・ゴール・エリアから放たれたゴールは3点、ツー・ポイント・フィールド・ゴール・エリアから放たれたゴールは2点、フリー・スローによるゴールは1点とする。第4クォーターが終わったときに同点の場合、1回5分間のオーバータイムを決着がつくまで必要な回数行う。中学校のゲームではオーバータイムは1回3分間とする。

 得点されたチームのプレーヤーがそのバスケットの後ろのエンド・ラインの任意の位置からスロー・インして、ゲームは再開される。

 ルールに対する違反をバイオレーションとよび、「ボールを保持したまま定められた範囲を超えて移動する(トラベリング)、ボールを保持しているチームが24秒以内にショットしない、ボールを8秒以内にバックコートからフロントコートに進めない、ボールをコントロールしているチームのプレーヤーが制限区域に3秒以上とどまる、1メートル以内の距離でガードされているプレーヤーが5秒以内にパスもショットもドリブルもしない、ボールをラインの外に出す、フロントコートで保持しているボールをバックコートに返す、ボールを床に投げたりたたいたり転がしたり弾ませたりして、その後、他のプレーヤーが触れないうちにふたたびそのボールに触れる(ダブルドリブル)」などのことをいう。違反すると相手チームのスロー・インによってゲームは再開される。

 プレーヤーが相手を押す、たたく、突き当たる、つまずかせるなど、不当な身体の触れ合いを犯したときはそのプレーヤーのパーソナル・ファウルとなる。また、スポーツマンらしくない言動などに対する特別なファウル(テクニカル・ファウルなど)がある。これらのファウルを合計5個犯したプレーヤーは、以後の出場が認められない。ショットの動作中のファウルに対してはそのショットが成功したときは得点とし、さらに1本のフリー・スローが与えられる。そのショットが不成功のときは、ショットしたエリアによって2本または3本のフリー・スローが与えられる。ショットの動作以前の場合はその場所に近い所からのスロー・インによって、ゲームは再開される。また、クォーターごとに(オーバータイムも含めて)チームのファウルが4個を超えると、その後のファウルに対して相手チームに2個のフリー・スローが与えられる。テクニカル・ファウルを犯した場合は相手チームに1個のフリー・スローが与えられたのち、ゲームが止められたときにボールがあった場所からもっとも近いアウト・オブ・バウンズ(コート外)でスロー・インの権利が与えられる。

 審判はクルー・チーフ(1名)とアンパイア(1名または2名)で構成され、テーブル・オフィシャルズとコミッショナー(同席している場合)のサポートのもと、ゲームを進行する。クルー・チーフは、インスタント・リプレイ・システム(IRS。ビデオ判定)の使用など、ゲームの主審としての任務と責任を負う。

[水谷 豊 2019年8月20日]

車いすバスケットボール

〔1〕発祥と普及
車いすバスケットボールは1940年代よりアメリカで行われるようになった。第二次世界大戦後、車椅子(いす)を利用する傷痍(しょうい)軍人たちが、幼少時代からなじんでいたバスケットボールをプレーしていた。その後、1949年には全米車いすバスケットボール協会が設立されるほど急速に普及した。一方、イギリスの神経外科医のグットマンLudwig Guttman(1899―1980)は、脊髄(せきずい)損傷を負った傷痍軍人に対して、「失われたものを数えるな、残されたものを生かせ」という考えのもと、車椅子を利用してプレーできるスポーツをリハビリテーションに取り入れた。1948年にグットマンは病院敷地でアーチェリー、やり投げなどの競技会を始め、翌1949年の競技会からネットボールを加えた(ネットボールは、バスケットボールの元になったスポーツ。イギリスで女性向けのゲームとして誕生したが、ゴールにバックボードがないなど、バスケットボールとは異なっている)。

 英米で普及した車いすバスケットボールは、その後世界中で盛んになっていった。1964年の第1回パラリンピック・ローマ大会で正式種目となり、以来、2020年の東京大会まで一貫して実施種目となっている。

 1973年に世界の車いすバスケットボール統轄組織が設立され、1988年に国際車いすバスケットボール連盟(IWBF:International Wheelchair Basketball Federation)となり、ゾーン(Z)制が導入された。2019年時点で105か国・地域が加盟し、アフリカ(20か国)、アジア・オセアニア(29)、アメリカ(22)、ヨーロッパ(34)の四つのゾーンに分かれている。

 パラリンピックとは別に、1973年には非公式ながら男子の世界選手権が始められ、女子も1990年から開催されている。さらに、1997年から男子U23(23歳以下)、2011年から女子U25の世界選手権がそれぞれ行われている。

〔2〕日本における普及
日本において、障がい者スポーツの創始者となったのはイギリスのグットマンのもとで研修を積んだ国立別府病院(大分県)の医師の中村裕(ゆたか)(1927―1984)であった。帰国後、1961年(昭和36)に大分県身体障害者体育大会の開催に奔走、車いすバスケットボールを紹介した。1963年の身体障害者体育大会(山口県)でも公開ゲームが行われ、1964年のパラリンピック東京大会が全国的に普及する契機になった。

 1967年に東京で日本初のクラブチームが結成され、その後、各都道府県でクラブチームが生まれていった。これを受けて、1970年に「第1回車いすバスケットボール競技大会」が、翌1971年からは「全国車いすバスケットボール競技大会」と名称を変えて開催された。また、全国身体障害者スポーツ大会では1972年から公式種目になった。その後、1975年に「日本車いすバスケットボール連盟」(JWBF:Japan Wheelchair Basketball Federation)が組織された。全国およそ100近くのチームが登録し、毎年、男女の全日本選手権大会が開催されている。

 日本はパラリンピック、世界選手権の両方に男子が連続出場している。2000年(平成12)以降のパラリンピックでは7~9位、2002年以降の世界選手権では7~10位にとどまっていたが、2021年(令和3)開催の東京大会では2位。パラリンピック、世界選手権を通じて初のメダルとなる銀メダルを獲得した。女子は2000年、2004年、2008年のパラリンピックでは3~5位だったが、その後の2大会は出場権を獲得できなかった。2021年開催の東京大会には2大会ぶりの出場を果たし、10チーム中6位だった。また2002年、2006年、2010年の世界選手権では女子は4~7位につけていたが、2014年、2018年と出場できていない。

〔3〕競技の概略
ほぼFIBAルール(一般のバスケットボールのルール)と同じだが、もっとも異なる点はプレーヤーの「持ち点」である。JWBF車いすバスケットボール競技規則によれば、プレーヤーは残存機能の程度によって4.5(障がいが軽い)~1.0(障がいが重い)の範囲で0.5刻みのクラス分けがなされ、それが「持ち点」となる。ゲーム中は5名の「持ち点」の合計が14.0以内と決められている。またFIBAルールでは、ダブルドリブルは違反となるが、車いすバスケットボールでは適用されない。つまり、「ドリブルとボール保持を繰り返す」のは違反とならない。さらに、トラベリングは「ボールを保持したまま車椅子を3回以上プッシュする」ことと定義されており、違反プレーとなる。

〔4〕最近の動向
2011年からIWBFは女子U25ワールドカップを導入した。第1回大会はカナダで行われ、以降4年ごとに2015年は中国、2019年にはタイで開催された。また、FIBAと同様の「3×3」(3人制バスケットボール。詳細は後述)を導入することをIWBFは公表しており、近く、新たな「車いすバスケットボール」が生まれると予想される。さらに、2018年にIWBFはFIBAとの関係を密接にするパートナーシップを確認し、事務局をスイスのFIBA会館に移した。

 国内では日本バスケットボール協会が2018年に「日本障がい者バスケットボール連盟」を設けた。ここには日本車いすバスケットボール連盟、日本車いすツインバスケットボール連盟、日本FID(知的障害者)バスケットボール連盟、日本デフバスケットボール協会が加盟している。

[水谷 豊 2022年2月18日]

3×3(3人制バスケットボール)

3×3(スリーエックススリー)(2019年にそれまでの「スリー・バイ・スリー」から名称変更)は、ストリート・バスケットボール(ストリートボール)に、世界統一競技ルールを設けたもので、国際バスケットボール連盟(FIBA)は3×3を正式競技種目として採用している。

〔1〕歴史
アメリカでは1980年代末から街中などにあるコートの半分だけを使って行う「3 on 3」(3オン3、スリー・オン・スリーthree on three)とよぶストリート・バスケットボールの人気が高まっていた。それに注目したアディダス社は1992年に大会を開催、これが契機となって「3 on 3」は一気に世界的に伝わりポピュラーになった。2007年、このプロ・アマを問わない、クラブチームによる対戦の「3 on 3」の動向を注視していたFIBAは、いくつかの国際大会でテストを重ね、2010年のサマー・ユースオリンピック・シンガポール大会から「3×3」を公式種目とした。

 2015年にはアゼルバイジャンでのヨーロッパ大会(European Games)の公式種目として実施され、2017年6月、IOC(国際オリンピック委員会)は「公式種目として採用、2020年の東京大会から実施する」ことを決定した。また、同年8月には2022年のイギリス連邦国大会でも実施することが発表されている。

 FIBAは、176の3×3加盟国・地域の各協会代表チームで競うオリンピック、ワールドカップ、U18(男女18歳以下)ワールドカップ、ワールドツアー、U23ネイションズリーグ(男女23歳以下)などを公式大会と位置づけている。またFIBA加盟国・地域の総合ランキングによれば、2019年時点で日本は第5位となっている。

〔2〕競技規則
FIBAおよびJBAの3×3競技規則によれば、ゲームは、バスケット1基を備えたハーフコート(正規の大きさは横15メートル、縦11メートル)で行われる。チームは4名(プレーヤー3名と控え1名)で構成される。ボールの周囲は72.4~73.7センチメートル(6号球)、重さは567~650グラム(7号球)。競技時間は10分間のピリオドを1回とし、ハーフタイムはない。タイムアウトは各チームに1回(30秒)のみ。勝敗は競技時間終了時の得点の多少で決まる。ただし、規定の競技時間が終了する前に、どちらかのチームが21点以上得点した時点で終了する。競技時間終了時に両チーム同点の場合はオーバータイム(延長)を行い、2点を先取したチームの勝利となる。ショットはボールを保持してから12秒以内に行わなければならない。得点はツー・ポイント・ライン(アーク)の内側からのショットが1点、外側からが2点、フリー・スローは1点。得点後に新たに攻撃側になったチームは、ドリブルかパスによってボールを一度アーク外に出さなければならない。チーム・ファウルの制限は6回で、7~9回目は相手チームにつねにフリー・スロー2本が与えられ、10回目以降はフリー・スロー2本とボールの所有権が与えられる。

〔3〕日本の状況
日本バスケットボール協会(JBA)は、2013年に「3×3推進室」を設けて、アマチュアの「3×3.EXE TOURNAMENT(スリーエックススリードットエグゼトーナメント)」(全国各地で開催する高校生以上の地域大会)を開始した。翌年、FIBA承認のトッププレーヤーによる「3×3.EXE PREMIER(プレミア)」を創設(女子は2018年)。さらに、性別や年齢に関係なくプレーを楽しむ機会の「3×3.EXE GAME(ゲーム)」、だれでも参加できる普及活動の「3×3.EXE FESTIVAL(フェスティバル)」も展開している。FIBAワールドツアーの3回の日本開催、FIBA 3×3アジアカップ2018で男子3位、女子4位、FIBA 3×3 U18(18歳以下)アジア選手権女子優勝など、国際的に存在感を高めている。2021年開催のオリンピック・東京大会では、男子は6位、女子は5位だった。

[水谷 豊 2022年2月18日]

ミニバスケットボール

〔1〕歴史
1951年にアメリカ、ペンシルベニア州のJ・アーチャーJay Archer(1912―1970)が、「ビディ・バスケットボールbiddy basketball」と名づけた、8~12歳の子供たちのためのバスケットボールを創始した(biddyは「孵(かえ)ってまもない小さな鳥の子・ひよこ」を意味する)。その後、1962年にスペイン協会が12歳以下の「子供版」として、ミニ(mini)をつけた「ミニバスケットボール」を始めた。1967年にアメリカで10か国から子供たち、コーチングスタッフ、協会関係者らが参加して交歓会が開催され、国際ミニバスケットボール委員会が結成された。その後、1979年にFIBAの主導のもと、世界ミニバスケットボール総会が開催され、各加盟国協会の認識が深まり、取組みが加速した。

 日本で公式に誕生したのは、1965年(昭和40)に東京で「少年少女バスケットボール教室」が始められたときにさかのぼる。1969年に第1回「ミニバスケットボール教室交歓大会」が京都で開かれ、その後参加チームは徐々に増加し、1975年には33都道府県に及び、1976年に日本ミニバスケットボール連盟(JMBF)が設立された。1981年から小学校の正課体育の授業で行われるようになり、その結果、部活動としてさらに盛んになっていった。参加が46都道府県チームに達したところで、1985年に名称が「全国ミニバスケットボール優勝大会」に変わり、日本バスケットボール連盟(JBA)に加盟した。1996年(平成8)から「全国ミニバスケットボール大会」とさらに名称が変更されたが、1969年の第1回から数えると、2019年(平成31)の大会で通算50回目となった。

 2018年末時点で男女9000ほどのチームは、2019年からJBAのアンダーカテゴリー強化部会の「U12」(12歳以下)に位置づけられ、プレーヤー登録やチーム加入なども変更された。そして、次世代を担う子供たちのバスケットボールについて、より楽しんでうち込める環境をつくり、発育・発達段階に応じた適切な指導で競技力の向上を図っていくことになった。

〔2〕おもなルール
JBAミニバスケットボール競技規則によれば、ゲームは、縦・横の長さの釣り合いのとれた障害物のない長方形のコート(縦22~28メートル、横12~15メートル)で行われる。バスケットの高さは一般より低く2.60メートル、ボールは5号球(周囲69~71センチメートル、重さ470~500グラム)。チームは計10名以上(プレーヤー5名と控え5名以上)で構成される(登録された競技者が10名未満のチームは8名でも可。近年の少子化に対する配慮が背景にあるとされる)。試合時間は6分間のクォーターを4回とし、インターバル(クォーター・タイム)1分を前後半各1回計2回、ハーフタイム5分、オーバータイムは3分。第1クォーターから第3クォーターの終了までに10名以上のプレーヤー(8名以上10名未満のチームは全員)が最低1クォーターは出場することなどが定められている。さらに、2018年からFIBAの方針や各国の状況を踏まえて、「ディフェンスはマン・ツー・マン・ディフェンス」とし、「ゾーン・ディフェンスは禁止」となった。勝利に固執するゲーム展開に陥らないようにする措置だとされる。

 2019年度以降、JBAはミニバスを年齢別カテゴリーのU12に位置づけた。それに伴い、従来のルールからJBAのU12ルールに移行することになった(2019年度を移行期間とし2020年度より完全実施)。たとえば、「プレーヤーの人数が10名以下でも8名いればゲームを開始できる」ことになった。また、1回45秒のタイムアウトを各クォーターそれぞれ1回ずつ請求できることになり、交代や指導が適切にできる。また、「ボール保持からショットまでの時間は24秒以内(以前は30秒以内)」と短縮された。

[水谷 豊 2019年8月20日]

『J・ネイスミス著、水谷豊訳『バスケットボール――その起源と発展』(1980・日本YMCA同盟出版部)』『水谷豊著『バスケットボール物語』(2011・大修館書店)』『日本バスケットボール協会編・刊『2019 バスケットボール競技規則』』『THE BASKETBALL WORLD(1972, FIBA)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バスケットボール」の意味・わかりやすい解説

バスケットボール
basketball

5人ずつからなる2チームがコート内でボールを相手側のバスケットに投げ入れ,得点を競う球技。 1891年アメリカ合衆国のYMCAの体育指導者ジェームズ・A.ネイスミスが考案,以後屋内競技として各国に普及した。 1932年国際アマチュアバスケットボール連盟 (国際バスケットボール連盟 FIBA) が設立され,1936年ベルリン・オリンピック競技大会からオリンピックの正式競技となった。 1949年にはアメリカにプロリーグのNBAが設立,その後若者たちを中心に人気を獲得した。日本には 1908年大森兵蔵によって伝えられ,YMCAから広がり,1930年には大日本バスケットボール協会 (のちに日本バスケットボール協会に改称) の設立をみた。コートは 28m× 15m,天井の高さは 7m以上,両サイドには内径 45cmのリングに長さ 40cmのネットをつけたバスケットを 3.05mの高さに設ける。ゲーム時間は従来 20分ハーフ制をとっていたが,2000年から 10分4ピリオドに変更された。点数はリングの真下を中心とする半径 6.25mの半円の外側 (スリーポイントエリア) からシュートを決めると3点,内側から決めると2点,フリースローを決めると1点。選手は味方選手へのパス,あるいはドリブルでボールを運ぶ。ボールの奪い合いが激しいため,相手が不利になる身体接触に対し反則を宣告するファウルのほか,ボールを持ったまま3歩以上移動するトラベリングや両手でドリブルするダブルドリブル,規定時間内でのプレーや行為が義務づけられている時間ルールなどバイオレーションと呼ばれるさまざまな違反や罰則規定が設けられている。また,試合中選手の交代は何回でも自由に行なわれる。

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