畠敷村
はたじきむら
[現在地名]三次市畠敷町
馬洗川北岸の台地に立地。北は後山村、東は四十貫村。中世には南畑敷・四十貫の両村を含む地を畠敷村と称した。「和名抄」所載の三次郡播次郷の地に比定され、播次が畠敷に転じたとされる。中世には三次地方を支配した三吉氏の本拠比叡尾山城が当地にあり、三次地方の中心となっていた。中世・近世を通じて八次村ともいい、「芸藩通志」に「村の旧記にも幡次・幡布・八次等を用ふ、元禄の頃より畠敷に作る」と記す。
比叡尾山城の麓には五日市・今市などの小字地名が残るように市が開かれ、この市は三吉氏が本拠を比熊山城に移す一六世紀末まで続くが、中世に山県郡新庄地方(現大朝町)で歌われた田植歌に「編笠は茶屋に忘れた扇子は町で落いた 買ふてまいせう今度の三吉町で」(田植草紙)とある「三吉町」は、この地のことといわれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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