百三段
ももさだ
雄物川河口左岸に開けた自然村落の新屋・石田坂・浜田の三村を含んだ地域を古くは「毛々左田」と総称した。源頼朝が奥州経営に着手し始めた文治五年(一一八九)平泉藤原氏の遺臣大河兼任が反乱を起こし、翌年一月六日鎌倉幕府の御家人由利惟平と「小鹿嶋大社山毛々左田之辺」で戦ったとある(「吾妻鏡」文治六年一月六日条)。同五年一二月、橘公業はこの地の地頭職に補任され、嘉禎四年(一二三八)の将軍家政所下文案(肥前小鹿島文書)によると「楊田、豊巻、百三段」は公業の子橘公員に譲られている(→柳田村)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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