日本歴史地名大系 「河辺郡」の解説
河辺郡
かわべぐん
東に
郡名の初見は「続日本後紀」承和一〇年(八四三)一二月一日条で、「十二月乙卯朔、出羽国河辺郡百姓外従五位下勲八等奈良己智豊継等五人、賜姓大滝宿禰、其先百済国人也」とある。「続日本紀」宝亀一一年(七八〇)八月二三日条、「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一一月二二日条に、「河辺」「河辺府」の名があるが、郡名とは関係がないといわれる(秋田県史)。「延喜式」民部に河辺の郡名があり、「和名抄」には「
室町時代後期、岩見川下流右岸にある
〔原始・古代〕
郡内には現雄和町に六ヵ所、現河辺町に五ヵ所の縄文遺跡が発見されている。遺跡は縄文中期以降のもので、土器片のほか、石斧・石匙・石鏃などを含み、河辺町
「続日本後紀」承和一〇年一二月一日条によれば、百済人を先祖にもつ河辺郡の百姓五人に、大滝宿禰の姓を与えたとある。北方開拓の過程で渡来人を含む開拓移民が行われ、河辺郡も設けられたものであろう。百姓五人の賜姓も開拓の功績と考えられる。元慶二年(八七八)秋田城下の夷俘が反乱を起こした時、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報