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相馬重胤 そうま しげたね

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

相馬重胤 そうま-しげたね

?-1338* 鎌倉-南北朝時代の武将。
相馬師胤(もろたね)の子。相馬氏6代。奥州相馬氏の祖。元亨(げんこう)3年下総(しもうさ)相馬郡(千葉県,茨城県)から陸奥行方(なめかた)郡(福島県)にうつり,のち小高城をきずいた。後醍醐(ごだいご)天皇の討幕軍にくわわり所領を安堵(あんど)される。のち足利方に属し,建武(けんむ)4=延元2年12月25日鎌倉で北畠顕家(あきいえ)の軍に敗れ自害した。通称は孫五郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

相馬重胤

没年:建武3/延元1(1336)
生年:生年不詳
鎌倉末・南北朝時代の武将。師胤の子。孫五郎。相馬氏は千葉氏六党のひとつで,奥羽合戦の功で陸奥国行方郡を与えられた。重胤は元亨3(1323)年一族の岡田,大悲山両氏らと共に行方郡に下向し,さらに嘉暦1(1326)年小高(福島県小高町)に館を構え,奥州相馬氏の祖となる。このとき妙見社など諸寺社も移したという。正慶2/元弘3(1333)年後醍醐天皇から所領を安堵され,建武2(1335)年には行方など諸郡の検断職および行方郡奉行に補任され,建武新政府下の陸奥小幕府体制の一翼を担う。が,その後北朝方に属し,建武3/延元1(1336)年斯波家長に従って鎌倉に赴いたが,北畠顕家軍に敗れ,法華堂下で自害。

(伊藤清郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の相馬重胤の言及

【相馬氏】より

…中・近世,下総・陸奥の武家。桓武平氏の流れをくみ,平将門の後裔と伝えられるが,直接の祖は千葉氏の祖常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)。千葉六党の一つ。師常は下総国相馬郡を領して相馬氏を称したが,1189年(文治5)の奥州平泉討伐の功によって陸奥国行方(なめかた)郡を与えられたという。その後,胤村の五男師胤が行方郡の所領を譲られ,その子重胤が1323年(元亨3)に一族とともに行方郡に下向して奥州相馬氏をおこした。…

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