矢作東宿
やはぎひがししゆく
矢作川と乙川の合流点に近い乙川南岸、現明大寺町にあった。律令制下の東海道が矢作川を渡る地点に設けられた官渡船渡場の、東方の渡しの発展したものであるが、初めから明大寺にあったかは不詳。平安前期までは、西岸北野と東岸大門・岩津が主要渡河路で、平安中期以降は渡と六名、明大寺が中心になったと推定されている(岡崎市史)。承和二年(八三五)六月二九日付の太政官符(類聚三代格)で、それまで二艘であった渡船が四艘に増やされている。催馬楽の「貫河」に「矢矧の市に沓買ひにかむ」とある市は、東西どちらかの渡場にあったもので、「沓買はば(中略)宮路かよはむ」の「宮路」を「伊場木簡」三〇号の宮地駅をさすとみれば、市は東の渡場にあったといえよう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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