日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平清康」の意味・わかりやすい解説
松平清康
まつだいらきよやす
(1511―1535)
戦国時代の武将。三河(みかわ)松平家7代目。安祥(あんじょう)城主のち岡崎城主。信忠(のぶただ)の子。徳川家康の祖父。1523年(大永3)信忠の隠退後、13歳で家督を継ぎ、以後三河統一に着手。24年には岡崎松平家の没落により岡崎城へ移り本拠とし、29年(享禄2)には吉田(よしだ)城、ついで田原(たはら)城を攻め東三河を平定。同年秋には尾張(おわり)へ進出し、品野(しなの)城・岩崎(いわさき)城を陥れ、その後31年までに小島(こじま)城・宇利(うり)城・伊保(いぼ)城を攻めたほか、三河を転戦し、その統一を進めていった。なお31年以降の清康の発給文書のうちに、新田(にった)流源氏の姓である「世良田(せらだ)」を名のったものがあるが、これは足利(あしかが)氏一門の今川氏に対抗するために清康が行った、系譜への政治的な粉飾であろう。しかし、35年(天文4)12月、織田信秀(のぶひで)と戦うため尾張守山(もりやま)へ出陣中、家臣の阿部弥七郎(やしちろう)に刺殺(守山崩れ)され発展は挫折(ざせつ)した。以後、領国は今川・織田氏の抗争地と化し、47年10月以降、孫の竹千代(たけちよ)(家康)は織田・今川氏のもとで人質生活を送ることになり、また子の広忠(ひろただ)は49年3月、家臣に刺殺され、今川氏の支配力が及ぶなど三河松平家は苦悩の時期を迎える。
[久保田昌希]