日本歴史地名大系 「矢橋村」の解説 矢橋村やばせむら 滋賀県:草津市矢橋村[現在地名]草津市矢橋町・橋岡町(はしおかちよう)新浜(しんはま)村の北、琵琶湖に面する。北は北(きた)川を挟み御倉(みくら)村。矢馳・矢走・箭橋・矢早稲・八橋などとも記された。湖岸沿いに集落が立地し、集落西端には湖上交通の拠点矢橋湊があり、東海道とは矢倉(やぐら)村で分岐する矢橋街道(一里八町)で結ばれ、広義には草津宿に含めることができる。同街道は東海道の短捷路として利用され、織田信長・徳川家康らも上洛路として利用した。中世には矢橋庄が成立。「明月記」正治二年(一二〇〇)閏二月二五日条によれば、後鳥羽上皇は静快阿闍梨を法勝(ほつしよう)寺(跡地は現京都市左京区)の供僧に補任しており、このとき蓮華王(れんげおう)院(現同市東山区)領矢橋庄は法勝寺の供僧料所となった。「愚管記」延文四年(一三五九)八月二四日条では、同年四月に京都吉田神社(現同市左京区)に寄進されている。 矢橋村やばせむら 三重県:鈴鹿市旧河曲郡地区矢橋村[現在地名]鈴鹿市矢橋町・矢橋一―三丁目・神戸(かんべ)一丁目・同三丁目神戸宿地子(じし)町のはずれ、六郷(ろくごう)川に架かる橋から以東の伊勢参宮街道沿いの集落で、ほとんど神戸の町続きにみえる。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「八百五拾石九斗壱升 八初瀬村」として現れる。江戸時代初期は幕府領で、四日市代官の支配下にあった。慶安四年(一六五一)石川総長が神戸藩主として入部した時、その支配に入ったと推定されるが史料はない。享保一七年(一七三二)本多忠統の入国とともに神戸藩領となる。文化六年(一八〇九)の「清渚秘記」(本田善一郎氏蔵)には「矢橋村 四三軒」、また同一四年の「諸用雑記」(同氏蔵)には戸数三八、人数二二〇とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by