知恩院門前(読み)ちおんいんもんぜん

日本歴史地名大系 「知恩院門前」の解説

知恩院門前
ちおんいんもんぜん

[現在地名]東山区石橋いしばし町・古西ふるにし町・三吉みよし町・もと町・松原まつばら町・梅本うめもと町・中之なかの町・西之にしの

知恩院門前の古門前ふるもんぜん通・新門前しんもんぜん通の沿道に、元禄期を前後して開けた町続き町。二筋の間を分けて白川が流れ、今日も古い京情緒をとどめる。

京都御役所向大概覚書所引の貞享二年(一六八五)六月付朱印状に「当寺(知恩院)門前境内地子以下免除」とあるように、「守護使不入」の地として知恩院が管掌庶政は雑色が支配し、洛中の町組にも編入をみることなく、独自の領域を維持した。石高は元禄一三年(一七〇〇)「山城国郷帳」に「高五拾壱石壱升五合三勺弐才 知恩院門前」とあり、江戸時代を通じほぼ固定している。「旧高旧領取調帳」によれば幕末は知恩院領のほかに八坂やさか(祇園社)領七升五合余が入組んでいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報