知恩院(読み)チオンイン

デジタル大辞泉 「知恩院」の意味・読み・例文・類語

ちおん‐いん〔‐ヰン〕【知恩院】

京都市東山区にある浄土宗総本山。正しくは華頂山大谷寺知恩教院。開創は承安5年(1175)、法然が結んだ吉水の庵室に始まり、入寂後の文暦元年(1234)源智が諸堂を建立、知恩院大谷寺と号した。現在の堂宇は寛永10年(1633)の焼失後、徳川家光の再興による。本堂と三門は国宝。また、国宝の「法然上人絵伝」など多数の文化財を所蔵。吉水禅房。

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精選版 日本国語大辞典 「知恩院」の意味・読み・例文・類語

ちおん‐いん‥ヰン【知恩院】

  1. 京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山。山号は華頂山。承安五年(一一七五)法然が西山広谷に草庵を結び念仏道場としたのに始まる。しばしば兵火にあったが室町末期に再興。慶長八年(一六〇三徳川家康の帰依をうけ、以後隆盛をきわめた。元和五年(一六一九)後陽成天皇の皇子、良純法親王が入寺、以来明治維新まで門跡寺となる。法然上人絵伝、阿彌陀二十五菩薩来迎図などの国宝がある。

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日本歴史地名大系 「知恩院」の解説

知恩院
ちおんいん

[現在地名]東山区林下町

円山まるやま公園の北、華頂かちよう山麓に位置し、北に青蓮しようれん院がある。五万三千余坪の境内に多くの堂塔伽藍を有する洛東の巨刹。華頂山大谷おおたに寺知恩教院と号する。浄土宗総本山。全国に七千余の末寺をもつ。浄土宗の開祖法然房源空の死没の地にあたり、本堂(御影堂)に法然の御影を安置する。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔吉水時代〕

法然は長承二年(一一三三)美作国久米くめ郡南条の稲岡いなおか荘で、久米郡押領使漆間時国の子として生れた。一五歳で比叡山に登り、西塔北谷さいとうきただにの持法房源光の下で天台学を学び、さらに黒谷くろだに慈眼房叡空の庵室に入って諸宗の章疏を渉猟した。承安五年(一一七五)唐の浄土教の祖善導の「観経疏」によって称名念仏による悟りを開き、従来の天台念仏と決別して比叡山を降り、「つゐに四明の巌洞をいてゝ、西山の広谷といふところに居をしめ」た(法然上人絵伝)粟生あお光明こうみよう(現京都府長岡京市)がその遺跡にあたる。その後、東山大谷の吉水よしみずに移り住んだが(同絵伝)、これが現在の知恩院の地である。

吉水時代の法然は「化導日にしたかひてさか(栄)へ、念仏に帰するもの雲霞のことし」であったという(前掲絵伝)西山広谷にしやまひろだにより移した庵室を中心に坊舎が形成され、「円光大師行状画図翼賛」巻四九は寺伝として「大師の御住房、鼎ノ如ク三所ニアリテ、中ノ房二岩、今ノ影堂ノ処、東ノ新房松ノ下、今ノ鐘楼ノ東北、西ノ本房清水、今ノ三門ノ西南、ト云、トモニ今ノ知恩院ノ境内ニアリ」と記す。中ノ房(二ッ岩禅房)が法然の居所で、西ノ本房(清水禅房もしくは下の坊)は旧房と思われ、東ノ新房(松ノ下禅房または上の坊)は三坊のうちで最も新しく建てられたようである。法然はおよそ三〇年間をここで過ごし、九条兼実や後鳥羽天皇中宮の宜秋門院任子らの帰依をうけ、多くの門弟を得た。旧仏教から圧迫されて九条兼実の別邸にかくまわれたりもしたが、ついに建永二年(一二〇七)には土佐・讃岐へ配流された。同年赦免されたが洛中への帰還は許されず、摂津国勝尾かつお(現大阪府箕面市)の西の谷などに仮寓し、帰洛したのは建暦元年(一二一一)一一月である。前掲絵伝は「そのゝち賀茂の河原屋、小松殿、勝尾寺、大谷なと、その居あらたまるといへとも、勧化をこたることなし」とその間の事情を物語る。

この間に、吉水の諸房は荒廃したらしく、前掲絵伝は「慈鎮和尚の御沙汰として、大谷の禅房に居住せしめたまふ」と記す。この禅房は故九条兼実の弟、青蓮院の慈鎮(慈円)から与えられたもので、前掲画図翼賛は「上京慈恵大僧正草創ノ地ニテ、南禅院ト号セラレシトゾ、中古妙香院ト名ヅク、慈鎮和尚大師ニ附シ給フ」としている。

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改訂新版 世界大百科事典 「知恩院」の意味・わかりやすい解説

知恩院 (ちおんいん)

京都市東山区にある浄土宗の総本山。華頂山大谷寺と号し,知恩教院ともいう。浄土宗の開祖法然が晩年に住んだ〈大谷の禅房〉に始まる。1212年(建暦2)法然が没すると,弟子らは禅房の東崖上に廟堂(びようどう)(墓)を造り,法然の御影(みえい)(像)を置き,法然の命日にはこの廟堂で法然の遺徳を讃嘆する〈知恩講〉を営んだ。27年(安貞1)専修念仏の隆盛をねたむ延暦寺の衆徒によって廟堂が破壊されたが,法然の弟子の源智が修復した。祖師入滅の霊跡として,法然の御影をまつる廟堂として,念仏者すべての心のよりどころであったから,やがて法然を宗祖と仰ぐ浄土宗教団の中心的寺院となっていく。8世如空(によくう)は法然の伝記の集成をこころざし,弟子の舜昌(のち9世となる)に《法然上人絵伝》48巻を完成させた。1431年(永享3)火災にかかり,20世空禅は1人1文ずつ48万人を勧進(かんじん)する方法で浄財を集めて再建したが,応仁の乱が起こり,68年(応仁2)兵火に焼けたので,22世珠琳(しゆりん)は法然の御影などの霊宝をもって近江の伊香立(いかだち)に避難した(のち新知恩院となる)。乱後,珠琳は京都にもどり,堂舎の復興につとめ,88年(長享2)ほぼこれを成し遂げ,青蓮院の尊応准后(じゆごう)から寺地所領を安堵されている。珠琳はまた後土御門天皇,後柏原天皇の帰依をうけ,しばしば宮中に出入りした。知恩院が勅願所となって,皇室との関係を深めるのはこのころからである。1523年(大永3)知恩寺(百万遍)との間で浄土宗の本山たる地位をめぐる争いが起きたのは,ようやく知恩院が地歩を固めてきたことを示す。係争は1575年(天正3)に,知恩院が浄土宗の本寺であり,香衣着用の勅許は知恩院よりの執奏(しつそう)によることを定めた綸旨(りんじ)が出されて,一応の結着をみた。

 29世尊照は徳川家康の帰依をうけ,知恩院の発展につとめた。家康は,1603年(慶長8)伽藍の拡張工事を行い,07年宮門跡を置き,15年(元和1)浄土宗法度を定めた。ここに知恩院は,幕府の保護のもとに,知恩寺,清浄華院(しようじようけいん)など他の本山を超え,浄土宗の総本山たる地位を不動のものとしたのである。1633年(寛永10)火災にあい,32世霊巌(れいがん)は元のごとく再建し,1万8000貫の大梵鐘を鋳た。江戸時代の知恩院は将軍家の菩提所で,わざわざ〈投げ銭無用〉と威勢をほこった。ところが明治維新で徳川氏の保護を失い,経済的に困窮の極に達した。75世養鸕徹定(うがいてつじよう),77世日野霊瑞は,全国の末寺住職の会議や檀信徒の組織化を図って,近代的な寺院運営を試み,財政の危機を克服した。毎年4月(元は1月で,1877年から変更)に行われる法然の忌日法要は,とくに御忌(ぎよき)と称し,知恩院の最も重要な年中行事である。
執筆者:

広大な寺域は3段に分かれ,下の段には諸塔頭(たつちゆう)と日本最大の三門(1619,重要文化財),中の段には主要堂舎が建ち並び,中央に本堂(御影堂。1639,重要文化財),〈鶯張りの廊下〉を経て後方には狩野一門の障壁画を配した江戸初期の大規模な書院造建築の大方丈・小方丈(ともに1641,重要文化財),また《宋版一切経》(5969帖,重要文化財)を納める経蔵(1619,重要文化財)などがあり,上の段には当院最古の建物で旧御影堂の勢至堂(1530,重要文化財)が建つ。寺宝は絵画,書跡,彫刻,工芸など数多いが,宗祖法然の生涯を48巻にまとめた《法然上人絵伝》(鎌倉時代),〈早来迎(はやらいごう)〉として知られる《阿弥陀二十五菩薩来迎図》(鎌倉時代),聖徳太子伝の最古本で永く法隆寺勧学院に蔵せられていた《上宮聖徳法王帝説》(平安時代),渡来品では《菩薩処胎経(ぼさつしよたいきよう)》(西魏時代),《大楼炭経(だいろうだんきよう)》(唐時代)がともに国宝に指定されている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「知恩院」の意味・わかりやすい解説

知恩院
ちおんいん

京都市東山(ひがしやま)区林下(りんか)町にある浄土宗の総本山。正しくは華頂山(かちょうざん)知恩教院大谷寺(おおたにでら)という。法然上人(ほうねんしょうにん)源空(げんくう)は西山広谷(にしやまひろだに)の庵室(あんしつ)をここに移して念仏道場とし、別に西の旧房、東の新房をもって門弟の房舎にあて専修(せんじゅ)念仏の道場としたのに始まる。1211年(建暦1)法然は四国の流罪(るざい)から入京を許されたが、ここが荒廃していたため、慈円(じえん)が南禅院(大谷禅房)を斡旋(あっせん)し、翌年ここで入寂(にゅうじゃく)した。信空らの門弟によって住坊のそばに廟堂(びょうどう)が建てられたが、1227年(安貞1)山門の衆徒により破却されようとしたため、ひそかに遺骸(いがい)を嵯峨(さが)に移し、粟生野(あおの)(長岡京市)で荼毘(だび)に付し、ついで湛空(たんくう)が小倉(おぐら)山に雁塔(がんとう)を建てたという。その後、1234年(文暦1)に源智(げんち)が大谷の霊蹟(れいせき)を復興し、知恩院大谷寺と号した。しかし室町末期の応仁(おうにん)の乱で焼失し、一時、伊香立(いかだつ)に難を避けたのち、1478年(文明10)ごろ住持珠琳(じゅりん)が朝野の奉加を得て再興し、88年(長享2)青蓮院尊応(しょうれんいんそんのう)から敷地、山林などを還付された。1523年(大永3)知恩寺との間に論争があったが、尊鎮(そんちん)の援助により落着し、浄土宗総本寺となった。

 この後、朝廷、貴族との交渉も多く、勅願所となって紫衣(しえ)を許され、さらに織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉らにより寺領が加増されて経済的基盤も確立した。徳川家康は、生母伝通(でんずう)院の菩提(ぼだい)のため大伽藍(がらん)の建立を発願し、諸堂が完備されて壮大な規模の寺院となった。さらに宮門跡(みやもんぜき)を申請し、1619年(元和5)良純(りょうじゅん)法親王以後続いたが、明治維新で廃絶。1633年(寛永10)失火焼亡したが、徳川家光(いえみつ)が再興を命じ、前後8年を費やして倍旧の伽藍が完成、東山景勝の地に広大な寺域を占めるに至った。維新の上地で一時窮乏したが、漸次復興し、1887年(明治20)知恩院門主を浄土宗管長とするようになった。

 入口の三門(国宝)は1621年の建立で、現存する三門中最大のものである。本堂(国宝)は法然上人の御影(みえい)を祀(まつ)り御影堂とよばれる。本堂軒裏の「忘れ傘」は名高い。本堂から鶯張(うぐいすば)りの廊下を過ぎると大方丈(ほうじょう)、小方丈(ともに国指定重要文化財)があり、これらは江戸初期の狩野(かのう)派の絵師による襖絵(ふすまえ)によって飾られている。このほか宋(そう)版『大蔵経(だいぞうきょう)』を収納する経蔵(転輪蔵(てんりんぞう))、法然入寂の地に建つ勢至(せいし)堂(本地堂)、唐門などがあり、いずれも国重要文化財に指定されている。寺宝には、国宝の『法然上人絵伝』(48巻、鎌倉時代)、『阿弥陀二十五菩薩来迎(あみだにじゅうごぼさつらいごう)図』(鎌倉時代、『早来迎(はやらいごう)』とよばれる)、『菩薩処胎経(ぼさつしょたいきょう)』(中国・西魏(せいぎ)代)、『大楼炭(だいるたん)経』(中国・唐代)、『上宮聖徳(じょうぐうしょうとく)法王帝説』(平安時代)のほか、彫刻、古文書など多くの文化財があり、浄土宗の宝庫といった感がある。

[玉山成元]

『藪内彦瑞編『知恩院史』(1937・知恩院)』『藤堂恭俊著『知恩院』(1974・教育新潮社)』『梅原猛・岸俊宏著『知恩院』(1977・淡交社)』


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百科事典マイペディア 「知恩院」の意味・わかりやすい解説

知恩院【ちおんいん】

京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山。法然が念仏道場を建て,入寂した地だが,たびたび比叡山の僧徒に破壊され,現在の建物は江戸時代再建のものが多い。日本現存中最大の規模の三門,御影(みえい)堂(本堂),方丈等禅宗寺院の様式をとっている。《法然上人絵伝》ほか多くの美術品がある。
→関連項目京都[市]月僊浄土教版浄土宗東山[区]円山公園

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「知恩院」の解説

知恩院
ちおんいん

京都市東山区にある浄土宗総本山。華頂山大谷寺知恩教院と号す。法然房源空が30年あまり住んだ吉水房と,配流ののち帰京して入滅した大谷禅房の地にあたる。法然没後,門弟たちは遺骸を葬る廟堂をたて知恩講を行ったが,1227年(安貞元)比叡山の衆徒によって破壊された。34年(文暦元)源智が再興,現在の寺号を与えられたという。室町時代には知恩寺と争い,1575年(天正3)正親町(おおぎまち)天皇の綸旨によって浄土宗の本寺となった。のち徳川家康が徳川家の香華寺と定め,一大伽藍を建立,宮門跡が迎えられて隆盛した。明治維新後,宮門跡は廃止されて寺領を失ったが復興された。多くの寺宝がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「知恩院」の意味・わかりやすい解説

知恩院
ちおんいん

京都市東山区にある浄土宗の総本山。華頂山大谷寺と号す。勢観房源智が法然の住した南禅院 (大谷禅房) の地に文暦1 (1234) 年に堂宇を建立し,法然を開山としたという。足利氏,徳川氏の帰依あつく,寺門が大いに興隆した。慶長 15 (1610) 年に徳川家康の奏請によって後陽成天皇の第8皇子良純法親王を迎えて浄土宗の上首となった。たびたび火災にあったが,現今の堂宇は寛永 16 (39) 年に徳川家光が再建したもので,うぐいす張りの廊下は有名。『法然上人絵伝』などの国宝を蔵する。

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旺文社日本史事典 三訂版 「知恩院」の解説

知恩院
ちおんいん

京都市東山区にある浄土宗総本山
1212年法然がこの地で没したのち,'34年弟子の源智が廟所を修理して知恩院と称したのが始まり。江戸初期,浄土宗徒徳川家康の保護をうけて勢力を拡張した。建造物に文化財が多く,『法然上人絵伝』も有名。

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デジタル大辞泉プラス 「知恩院」の解説

知恩院

京都府京都市東山区にある寺院。浄土宗総本山。正称「華頂山知恩教院大谷寺」。本尊は阿弥陀如来と法然上人御影(みえい)。法然入寂後に弟子が建てた廟堂が起源。国宝の三門、御影堂ほか、数多くの文化財を保有する。

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世界大百科事典(旧版)内の知恩院の言及

【浄土宗】より

…しかし信空と親しい湛空(たんくう)が二尊院を拠点に嵯峨門徒を擁し,いま一つの勢力をなしていた。二尊院は東山大谷の法然廟堂が知恩院として発展するまでの,法然滅後約1世紀半の間の京都における法然信仰の中心地であった。弁長は北九州で教化に専念し,草野氏の保護を受け,筑後国善導寺(現,久留米市)を建てた。…

※「知恩院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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