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知恩院 ちおんいん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

知恩院
ちおんいん

京都市東山区にある浄土宗総本山華頂山大谷寺と号す。勢観房源智法然の住した南禅院 (大谷禅房) の地に文暦1 (1234) 年に堂宇建立し,法然を開山としたという。足利氏,徳川氏の帰依あつく,寺門が大いに興隆した。慶長 15 (1610) 年に徳川家康奏請によって後陽成天皇の第8皇子良純法親王を迎えて浄土宗の上首となった。たびたび火災にあったが,現今の堂宇は寛永 16 (39) 年に徳川家光が再建したもので,うぐいす張りの廊下は有名。『法然上人絵伝』などの国宝を蔵する。

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デジタル大辞泉の解説

ちおん‐いん〔‐ヰン〕【知恩院】

京都市東山区にある浄土宗の総本山。正しくは華頂山大谷寺知恩教院。開創は承安5年(1175)、法然が結んだ吉水庵室に始まり、入寂後の文暦元年(1234)源智が諸堂を建立、知恩院大谷寺と号した。現在の堂宇は寛永10年(1633)の焼失後、徳川家光の再興による。本堂三門は国宝。また、国宝の「法然上人絵伝」など多数の文化財を所蔵。吉水禅房。

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百科事典マイペディアの解説

知恩院【ちおんいん】

京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山。法然が念仏道場を建て,入寂した地だが,たびたび比叡山の僧徒に破壊され,現在の建物は江戸時代再建のものが多い。日本現存中最大の規模の三門,御影(みえい)堂(本堂),方丈等禅宗寺院の様式をとっている。
→関連項目京都[市]月僊浄土教版浄土宗東山[区]円山公園

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デジタル大辞泉プラスの解説

知恩院

京都府京都市東山区にある寺院。創建は1175年。浄土宗総本山、本尊阿弥陀如来、法然上人尊像(御影)。国宝の三門、本堂など多くの文化財を保有。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちおんいん【知恩院】

京都市東山区にある浄土宗の総本山。華頂山大谷寺と号し,知恩教院ともいう。浄土宗の開祖法然が晩年に住んだ〈大谷の禅房〉に始まる。1212年(建暦2)法然が没すると,弟子らは禅房の東崖上に廟堂(びようどう)(墓)を造り,法然の御影(みえい)(像)を置き,法然の命日にはこの廟堂で法然の遺徳を讃嘆する〈知恩講〉を営んだ。27年(安貞1)専修念仏の隆盛をねたむ延暦寺の衆徒によって廟堂が破壊されたが,法然の弟子の源智が修復した。

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大辞林 第三版の解説

ちおんいん【知恩院】

京都市東山区林下町にある浄土宗総本山。正しくは華頂山智恩教院大谷寺。比叡山を下った法然が専修念仏を唱えて庵を結んだのに始まる。その死後、弟子の源智が堂宇を建立。徳川家康が生母の菩提のため、壮大な伽藍がらんを建立。「法然上人絵伝」などを所蔵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

知恩院
ちおんいん

京都市東山(ひがしやま)区林下(りんか)町にある浄土宗の総本山。正しくは華頂山(かちょうざん)知恩教院大谷寺(おおたにでら)という。法然上人(ほうねんしょうにん)源空(げんくう)は西山広谷(にしやまひろだに)の庵室(あんしつ)をここに移して念仏道場とし、別に西の旧房、東の新房をもって門弟の房舎にあて専修(せんじゅ)念仏の道場としたのに始まる。1211年(建暦1)法然は四国の流罪(るざい)から入京を許されたが、ここが荒廃していたため、慈円(じえん)が南禅院(大谷禅房)を斡旋(あっせん)し、翌年ここで入寂(にゅうじゃく)した。信空らの門弟によって住坊のそばに廟堂(びょうどう)が建てられたが、1227年(安貞1)山門の衆徒により破却されようとしたため、ひそかに遺骸(いがい)を嵯峨(さが)に移し、粟生野(あおの)(長岡京市)で荼毘(だび)に付し、ついで湛空(たんくう)が小倉(おぐら)山に雁塔(がんとう)を建てたという。その後、1234年(文暦1)に源智(げんち)が大谷の霊蹟(れいせき)を復興し、知恩院大谷寺と号した。しかし室町末期の応仁(おうにん)の乱で焼失し、一時、伊香立(いかだつ)に難を避けたのち、1478年(文明10)ごろ住持珠琳(じゅりん)が朝野の奉加を得て再興し、88年(長享2)青蓮院尊応(しょうれんいんそんのう)から敷地、山林などを還付された。1523年(大永3)知恩寺との間に論争があったが、尊鎮(そんちん)の援助により落着し、浄土宗総本寺となった。
 この後、朝廷、貴族との交渉も多く、勅願所となって紫衣(しえ)を許され、さらに織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉らにより寺領が加増されて経済的基盤も確立した。徳川家康は、生母伝通(でんずう)院の菩提(ぼだい)のため大伽藍(がらん)の建立を発願し、諸堂が完備されて壮大な規模の寺院となった。さらに宮門跡(みやもんぜき)を申請し、1619年(元和5)良純(りょうじゅん)法親王以後続いたが、明治維新で廃絶。1633年(寛永10)失火焼亡したが、徳川家光(いえみつ)が再興を命じ、前後8年を費やして倍旧の伽藍が完成、東山景勝の地に広大な寺域を占めるに至った。維新の上地で一時窮乏したが、漸次復興し、1887年(明治20)知恩院門主を浄土宗管長とするようになった。
 入口の三門(国宝)は1621年の建立で、現存する三門中最大のものである。本堂(国宝)は法然上人の御影(みえい)を祀(まつ)り御影堂とよばれる。本堂軒裏の「忘れ傘」は名高い。本堂から鶯張(うぐいすば)りの廊下を過ぎると大方丈(ほうじょう)、小方丈(ともに国指定重要文化財)があり、これらは江戸初期の狩野(かのう)派の絵師による襖絵(ふすまえ)によって飾られている。このほか宋(そう)版『大蔵経(だいぞうきょう)』を収納する経蔵(転輪蔵(てんりんぞう))、法然入寂の地に建つ勢至(せいし)堂(本地堂)、唐門などがあり、いずれも国重要文化財に指定されている。寺宝には、国宝の『法然上人絵伝』(48巻、鎌倉時代)、『阿弥陀二十五菩薩来迎(あみだにじゅうごぼさつらいごう)図』(鎌倉時代、『早来迎(はやらいごう)』とよばれる)、『菩薩処胎経(ぼさつしょたいきょう)』(中国・西魏(せいぎ)代)、『大楼炭(だいるたん)経』(中国・唐代)、『上宮聖徳(じょうぐうしょうとく)法王帝説』(平安時代)のほか、彫刻、古文書など多くの文化財があり、浄土宗の宝庫といった感がある。[玉山成元]
『藪内彦瑞編『知恩院史』(1937・知恩院) ▽藤堂恭俊著『知恩院』(1974・教育新潮社) ▽梅原猛・岸俊宏著『知恩院』(1977・淡交社)』

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世界大百科事典内の知恩院の言及

【浄土宗】より

…しかし信空と親しい湛空(たんくう)が二尊院を拠点に嵯峨門徒を擁し,いま一つの勢力をなしていた。二尊院は東山大谷の法然廟堂が知恩院として発展するまでの,法然滅後約1世紀半の間の京都における法然信仰の中心地であった。弁長は北九州で教化に専念し,草野氏の保護を受け,筑後国善導寺(現,久留米市)を建てた。…

※「知恩院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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