朝日日本歴史人物事典 「石井庄助」の解説
石井庄助
生年:寛保3(1743)
江戸中期の通詞出身蘭学者。長崎町人石津伊左衛門の子で,阿蘭陀通詞馬田家の養子となり,6代清吉と称す。宝暦12(1762)年稽古通詞,明和8(1771)年小通詞末席と昇進したが,その後通詞職を辞し,大槻玄沢の長崎遊学帰途に同行して天明6(1786)年に江戸に出る。名を石井恒右衛門のち庄助と改め,寛政4(1792)年森島中良(桂川甫粲)と共に白河藩主松平定信に禄仕。また請われて玄沢の門人稲村三伯,宇田川玄随らにオランダ語を教授。本邦初の蘭日辞典『江戸ハルマ』(1796)は,もともと辞書編纂の志を持っていた庄助の訳稿を三伯が完成したもの。玄沢のいう「良縁」の産物である。庄助は当時江戸で最も実力のある蘭学者と称えられていた。他に松平定信の命による訳書『遠西本草攬要』(1792),『遠西軍器考』(1799)がある。<参考文献>大槻如電『新撰洋学年表』,板沢武雄『日蘭文化交渉史の研究』
(鳥井裕美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報