江戸後期の蘭方医(らんぽうい)、蘭学者。名は茂質(しげかた)、磐水(ばんすい)と号す。陸奥(むつ)一関(いちのせき)藩医玄梁(げんりょう)の子に生まれ、同藩の医師建部清庵(たけべせいあん)(1712―1782)に医学を学び、1778年(安永7)江戸に出て杉田玄白(げんぱく)、前野良沢(りょうたく)に蘭学を学んだ。1785年(天明5)長崎に至り、オランダ通詞(つうじ)本木良永(よしなが)のもとに寄宿、オランダ語を学んだ。翌1786年江戸に戻り、江戸詰め仙台藩医となり、京橋に学塾「芝蘭堂(しらんどう)」を開いた。1811年(文化8)幕府天文台に出仕、ショメルNoël Chomel(1632―1712)の百科事典の翻訳である『厚生新編』訳述事業に参画した。
1794年(寛政6)オランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わし、以後、6か年度にわたって行った対談をまとめて『西賓対晤(せいひんたいご)』を著した。寛政(かんせい)6年閏(うるう)11月11日(太陽暦の1795年1月1日)に、太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀(おらんだ)正月」の会を芝蘭堂で催した。この賀宴には江戸の蘭学者たちが参集して蘭学の発展を祈念した。1781年『蘭学階梯(かいてい)』2巻を起草、1783年に完成、1788年に刊行した。本書は蘭学学習の大要を記したもので、これを読んで蘭学に志した者が少なくなかった。師の杉田玄白から命ぜられた『解体新書』の改訂、ハイステルL. Heister(1683―1758)の外科書の翻訳は、それぞれ『重訂解体新書』13冊(1826)、『瘍医(ようい)新書』4冊(1825)として刊行。文政(ぶんせい)10年3月30日没。墓所は芝高輪(たかなわ)の東禅寺。
[片桐一男]
『大槻磐水著、大槻茂雄編『磐水存響』(1912・私家版/複製・1991・思文閣出版)』▽『大槻如電著『少年読本第50編 大槻磐水』(1902・博文館)』
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(佐藤昌介)
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江戸後期の蘭学者。陸中西磐井郡中里に医家の長子として生まれ,幼名は陽吉,のち元節,さらに茂質(しげかた)と改名,字は子煥,黒沢の地にちなみ玄沢と通称,磐井川辺の地名にちなんで磐水と号し,堂号を幽蘭堂のち芝蘭堂(しらんどう)といった。父玄梁が仙台藩の支藩一関藩医に出仕後,同藩の同僚建部清庵門に入り,清庵の三男亮策が杉田玄白門に入ったのに刺激されて,請うて玄白に入門,前野良沢についてオランダ語を学び,さらに長崎に遊学して本木良永らに交わって語学力を深めた。江戸に帰ってからは江戸詰の仙台藩医としてのかたわら蘭方医学塾(芝蘭堂)を開き,江戸蘭学の次代を担う中心人物として多くの蘭方医を育成,蘭学の発展と普及に貢献,1811年(文化8)幕府に出仕して《厚生新編》の訳業に参画した。著訳書すこぶる多く,《重訂解体新書》《瘍医新書》《六物新志》《薦録》《蘭畹摘芳》《大西黴瘡方》等の医書,本草書のほか,《蘭学階梯(らんがくかいてい)》等の語学書もあり,300余巻に及ぶ。
執筆者:宗田 一
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1757.9.28~1827.3.30
江戸中期の蘭方医・蘭学者。名は茂質(しげかた),字は子煥,号は磐水。玄沢は通称。はじめ陸奥国一関藩医建部清庵に医を学び,のち江戸に出て杉田玄白・前野良沢に蘭学を学ぶ。1785年(天明5)長崎に遊学,翌年江戸に帰って仙台藩主伊達氏の侍医となり,蘭学塾芝蘭堂を開く。同塾には「蘭学階梯」(1788)に刺激をうけた俊秀が全国から参集し,新元会(オランダ正月)の賀宴で江戸蘭学界の中心的存在となった。1811年(文化8)幕府の天文方に蛮書和解御用の局が設けられると,馬場佐十郎貞由(さだよし)を補佐する訳員となり,ショメルの百科事典(「厚生新編」)の訳出に従事した。訳著は「瘍医新書」「重訂解体新書」「環海異聞」など数多い。
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…長崎出島蘭館で,在留オランダ人が,キリスト教禁令下のためクリスマスを表立って祝うことができなかった代りに,日本の風習の冬至祭になぞらえて〈オランダ冬至〉を,また太陰暦の正月の祝をまねて太陽暦で洋式賀宴を開き,日本人役人や通詞(つうじ)(通訳官)らを招いていた。これがオランダ正月で,日本人の間にもひろまり,長崎出島の通詞の吉雄耕牛宅の2階洋間で開かれた賀宴に出席したことのある江戸の蘭学者大槻玄沢(おおつきげんたく)が,江戸参府のオランダ人と最初の対談経験をもった年の寛政6年閏11月11日が西暦1795年1月1日に当たることから,江戸の自宅蘭学塾(芝蘭(しらん)堂)に蘭学の同志を招き芝蘭堂新元会を開いた。これが江戸におけるオランダ正月の始まりで,以後毎年冬至より第11日目に賀宴を開くのが恒例となり,44回も続いた。…
…満足な辞典のないことで訳述に苦労し,中国書にない学術用語の日本訳に苦心がはらわれた。〈軟骨,神経,門脈〉などの言葉は玄白らの新造語であるが,訳名を与えられなかった言葉には,のちに宇田川玄真や大槻玄沢らが新造語を当て,また玄白らの訳名の一部改訂もみられる。〈膵臓〉などはその一例である。…
…これはW.T.G.モートンらのエーテル麻酔に先立つこと約40年であった。華岡流外科は中国式とオランダ式の折衷であったが,西洋外科学の直接の導入は,大槻玄沢によるハイスターL.Heisterの外科書の翻訳やP.F.vonシーボルトの外科書の日本語への翻訳による。当時の外科医としては青洲の門弟の本間棗軒(そうけん)や,順天堂をおこした佐藤泰然らが知られる。…
…江戸後期の蘭方医学者大槻玄沢(おおつきげんたく)(磐水)の蘭学塾名。1786年(天保6)5月長崎遊学から江戸に帰った玄沢は,いったん杉田玄白宅に身を寄せ,のち京橋1丁目,8月本材木町に単身居を構えた。…
…古くは戦国時代の末ころよりキリシタンの人々に利用されていたが,江戸時代の本多利明は太陽暦の便利さを説いているし,同じころ,中井履軒や山片蟠桃は太陽暦の見本を作っていた。1795年には太陽暦の1月1日に蘭方医大槻玄沢によってオランダ正月が祝われた。安政の初めころ,天文方渋川景佑によって日本最初の本格的太陽暦《万国普通暦》が刊行された。…
…江戸期に刊行された最初の蘭語学入門書。大槻玄沢(おおつきげんたく)著。1788年(天明8)刊,2巻。…
…それには本書の再発見と初版刊行のいきさつが述べられているが,その史実には現在疑問がもたれている。大槻玄沢(おおつきげんたく)の序文のある写本によれば,玄白82歳の1814年(文化11)から起筆し病床に伏して一時期は中断,翌年に稿が成って無題のまま門弟の玄沢に渡し増補訂正を依頼した。玄沢は疑問点を質問し論議を重ね2巻本の書とし,題名を《蘭東事始》(蘭学が東漸した起源の意)にした,という。…
※「大槻玄沢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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