大槻玄沢(読み)オオツキゲンタク

デジタル大辞泉 「大槻玄沢」の意味・読み・例文・類語

おおつき‐げんたく〔おほつき‐〕【大槻玄沢】

[1757~1827]江戸後期の蘭学者陸奥むつの人。名は茂質しげかたあざな子煥しかん杉田玄白前野良沢オランダ医学オランダ語を学び、長崎に遊学。著「蘭学階梯」「重訂解体新書」など。

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精選版 日本国語大辞典 「大槻玄沢」の意味・読み・例文・類語

おおつき‐げんたく【大槻玄沢】

  1. 江戸中期の蘭医。陸奥の生まれ。名は茂質(しげたか)。号磐水。杉田玄白、前野良沢について学ぶ。学塾芝蘭堂(しらんどう)を江戸に開き、また、蘭書翻訳に従う。著「蘭学階梯」「重訂解体新書」など。宝暦七~文政一〇年(一七五七‐一八二七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大槻玄沢」の意味・わかりやすい解説

大槻玄沢
おおつきげんたく
(1757―1827)

江戸後期の蘭方医(らんぽうい)、蘭学者。名は茂質(しげかた)、磐水(ばんすい)と号す。陸奥(むつ)一関(いちのせき)藩医玄梁(げんりょう)の子に生まれ、同藩の医師建部清庵(たけべせいあん)(1712―1782)に医学を学び、1778年(安永7)江戸に出て杉田玄白(げんぱく)、前野良沢(りょうたく)に蘭学を学んだ。1785年(天明5)長崎に至り、オランダ通詞(つうじ)本木良永(よしなが)のもとに寄宿、オランダ語を学んだ。翌1786年江戸に戻り、江戸詰め仙台藩医となり、京橋に学塾「芝蘭堂(しらんどう)」を開いた。1811年(文化8)幕府天文台に出仕ショメルNoël Chomel(1632―1712)の百科事典の翻訳である『厚生新編』訳述事業に参画した。

 1794年(寛政6)オランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わし、以後、6か年度にわたって行った対談をまとめて『西賓対晤(せいひんたいご)』を著した。寛政(かんせい)6年閏(うるう)11月11日(太陽暦の1795年1月1日)に、太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀(おらんだ)正月」の会を芝蘭堂で催した。この賀宴には江戸の蘭学者たちが参集して蘭学の発展を祈念した。1781年『蘭学階梯(かいてい)』2巻を起草、1783年に完成、1788年に刊行した。本書は蘭学学習の大要を記したもので、これを読んで蘭学に志した者が少なくなかった。師の杉田玄白から命ぜられた『解体新書』の改訂、ハイステルL. Heister(1683―1758)の外科書の翻訳は、それぞれ『重訂解体新書』13冊(1826)、『瘍医(ようい)新書』4冊(1825)として刊行。文政(ぶんせい)10年3月30日没。墓所は芝高輪(たかなわ)の東禅寺

[片桐一男]

『大槻磐水著、大槻茂雄編『磐水存響』(1912・私家版/複製・1991・思文閣出版)』『大槻如電著『少年読本第50編 大槻磐水』(1902・博文館)』


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百科事典マイペディア 「大槻玄沢」の意味・わかりやすい解説

大槻玄沢【おおつきげんたく】

江戸時代の医学者,蘭学者。名は茂質(しげかた),号は磐水。陸中の人。一関の建部清庵に学び,1778年江戸に出て杉田玄白の門人となり,前野良沢にも師事し,長崎にも遊学した。《蘭学階梯》(1788年),《重訂解体新書》(1826年),《環海異聞》(1807年)など著書多く,1811年から蛮書和解御用を務め,その家塾芝蘭(しらん)堂(オランダ正月)は当時の蘭学の中心であった。次男磐渓〔1801-1878〕は蘭学も学んだが,むしろ儒者として知られ,主著《孟子約解》《近古史談》等。磐渓は如電,文彦の父。
→関連項目稲村三伯宇田川玄随大槻磐渓大槻文彦解体新書朽木昌綱工藤平助小石元俊厚生新編津太夫橋本宗吉山村才助蘭学事始

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朝日日本歴史人物事典 「大槻玄沢」の解説

大槻玄沢

没年:文政10.3.30(1827.4.25)
生年:宝暦7.9.28(1757.11.9)
江戸中期の蘭学者。名は茂質,号は磐水,玄沢は通称。仙台藩の支封一関藩(一関市)の藩医大槻玄梁の長子。安永7(1778)年に江戸遊学を許されて杉田玄白の門に入り,医術を修めるかたわら,前野良沢に蘭語を学んだ。天明5(1785)年10月に長崎遊学の途につき,翌年5月に帰府し,まもなく本藩仙台藩の藩医に抜擢されて,江戸定詰となった。これを機に家塾芝蘭堂を設け,橋本宗吉,稲村三伯,宇田川玄真,山村才助ら多くの俊才を育てた。他方,師の玄白の意を体して,ハイステルの外科書の序章(『瘍医新書』)の訳述および本文の抄訳にたずさわり,次いで師命によって寛政2(1790)年『解体新書』の改訂に着手,文化1(1804)年にいちおう完了した。『重訂解体新書』(1821)がこれである。 同年,ロシア使節レザーノフが仙台藩領の漂流民4名を伴って長崎に来航したが,翌年3月交易を拒絶されたため,漂流民を残して退去した。仙台藩は彼らを引き取り,玄沢は藩命でこれら漂流民の事歴を聴取して,これを基に『環海異聞』を著し,藩主に献上した。北方海域でロシア船の暴行事件が頻発し,仙台藩が出兵を命ぜられた文化4(1807)年のことである。フランス革命に端を発するヨーロッパの動乱が東アジアにおよびつつあることを玄沢は知っていただけに,ロシアと同盟関係にあるイギリスの東アジア進出に危機感をいだき,『捕影問答』を著して,これを伊達家出身の若年寄堀田正敦に呈上した。意見は幕閣で取り上げられ,その結果,蘭館長ドゥーフへの質問が繰り返し行われるなど,幕府の対外政策に深くかかわることになった。文化8年に幕命により,『厚生新編』の名で知られるショメールの百科事典の翻訳にたずさわり,のちにその写本をひそかに自藩の庫に収めた。これが『生計纂要』と改名されて,今日まで伝えられている。こうして玄沢は,その後半生を通じて,本格的な医学研究からはずれた道を歩み,その生涯を閉じた。江戸高輪の東禅寺に葬られた。著作は静嘉堂大槻文庫,早稲田大学洋学文庫に収められている。<参考文献>大槻茂雄編『磐水存響』,洋学史研究会編『大槻玄沢の研究』

(佐藤昌介)

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改訂新版 世界大百科事典 「大槻玄沢」の意味・わかりやすい解説

大槻玄沢 (おおつきげんたく)
生没年:1757-1827(宝暦7-文政10)

江戸後期の蘭学者。陸中西磐井郡中里に医家の長子として生まれ,幼名は陽吉,のち元節,さらに茂質(しげかた)と改名,字は子煥,黒沢の地にちなみ玄沢と通称,磐井川辺の地名にちなんで磐水と号し,堂号を幽蘭堂のち芝蘭堂(しらんどう)といった。父玄梁が仙台藩の支藩一関藩医に出仕後,同藩の同僚建部清庵門に入り,清庵の三男亮策が杉田玄白門に入ったのに刺激されて,請うて玄白に入門,前野良沢についてオランダ語を学び,さらに長崎に遊学して本木良永らに交わって語学力を深めた。江戸に帰ってからは江戸詰の仙台藩医としてのかたわら蘭方医学塾(芝蘭堂)を開き,江戸蘭学の次代を担う中心人物として多くの蘭方医を育成,蘭学の発展と普及に貢献,1811年(文化8)幕府に出仕して《厚生新編》の訳業に参画した。著訳書すこぶる多く,《重訂解体新書》《瘍医新書》《六物新志》《薦録》《蘭畹摘芳》《大西黴瘡方》等の医書,本草書のほか,《蘭学階梯(らんがくかいてい)》等の語学書もあり,300余巻に及ぶ。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大槻玄沢」の意味・わかりやすい解説

大槻玄沢
おおつきげんたく

[生]宝暦7(1757).9.28. 陸中,中里
[没]文政10(1827).3.30. 江戸
江戸時代後期の蘭方医,蘭学者。江戸蘭学の興隆を導いた功労者の一人。名は茂質,字は子煥,磐水はその号。初め一ノ関藩医建部清庵に学び,清庵と杉田玄白の間に交友関係が生れたことから,安永7 (1778) 年,22歳のとき江戸に出て玄白,前野良沢について蘭学を学び,両師の名前を1字ずつもらって玄沢と通称した。天明4 (84) 年長崎に学び,翌々年江戸に帰り仙台藩医員江戸詰となり,同時に家塾芝蘭堂を開く。文化8 (1810) 年,幕府天文台蕃書和解御用局員となる。著書は数多く三百余巻に達する。『蘭学階梯』『重訂解体新書』『環海異聞』『瘍医新書』『六物新志』など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大槻玄沢」の解説

大槻玄沢
おおつきげんたく

1757.9.28~1827.3.30

江戸中期の蘭方医・蘭学者。名は茂質(しげかた),字は子煥,号は磐水。玄沢は通称。はじめ陸奥国一関藩医建部清庵に医を学び,のち江戸に出て杉田玄白・前野良沢に蘭学を学ぶ。1785年(天明5)長崎に遊学,翌年江戸に帰って仙台藩主伊達氏の侍医となり,蘭学塾芝蘭堂を開く。同塾には「蘭学階梯」(1788)に刺激をうけた俊秀が全国から参集し,新元会(オランダ正月)の賀宴で江戸蘭学界の中心的存在となった。1811年(文化8)幕府の天文方に蛮書和解御用の局が設けられると,馬場佐十郎貞由(さだよし)を補佐する訳員となり,ショメルの百科事典(「厚生新編」)の訳出に従事した。訳著は「瘍医新書」「重訂解体新書」「環海異聞」など数多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大槻玄沢」の解説

大槻玄沢 おおつき-げんたく

1757-1827 江戸時代中期-後期の医師,蘭学者。
宝暦7年9月28日生まれ。一関藩(岩手県)藩医建部(たてべ)清庵に医学を,江戸で杉田玄白,前野良沢に蘭学をまなぶ。長崎に遊学後,天明6年江戸で仙台藩医となり,京橋に日本最初の蘭学塾芝蘭堂(しらんどう)をひらく。文政10年3月30日死去。71歳。陸奥(むつ)磐井郡(岩手県)出身。名は茂質(しげかた)。字(あざな)は子煥。号は磐水,半酔半醒。著作に「重訂解体新書」「蘭学階梯(かいてい)」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大槻玄沢」の解説

大槻玄沢
おおつきげんたく

1757〜1827
江戸後期の蘭学者・医者・教育者
陸奥(岩手県)陸中の人。22歳で江戸に出,杉田玄白・前野良沢に学んだ。長崎遊学後,1786年江戸に私塾芝蘭堂を開き蘭学教育に尽力し,稲村三伯・宇田川玄真ら多くの蘭学者を育成した。また当時の外交問題にも関心をもち『北辺採事』を著した。著書に『蘭学階梯』。

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367日誕生日大事典 「大槻玄沢」の解説

大槻玄沢 (おおつきげんたく)

生年月日:1757年9月28日
江戸時代後期の陸奥一関藩士;陸奥仙台藩士;蘭学者
1827年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大槻玄沢の言及

【オランダ正月】より

…長崎出島蘭館で,在留オランダ人が,キリスト教禁令下のためクリスマスを表立って祝うことができなかった代りに,日本の風習の冬至祭になぞらえて〈オランダ冬至〉を,また太陰暦の正月の祝をまねて太陽暦で洋式賀宴を開き,日本人役人や通詞(つうじ)(通訳官)らを招いていた。これがオランダ正月で,日本人の間にもひろまり,長崎出島の通詞の吉雄耕牛宅の2階洋間で開かれた賀宴に出席したことのある江戸の蘭学者大槻玄沢(おおつきげんたく)が,江戸参府のオランダ人と最初の対談経験をもった年の寛政6年閏11月11日が西暦1795年1月1日に当たることから,江戸の自宅蘭学塾(芝蘭(しらん)堂)に蘭学の同志を招き芝蘭堂新元会を開いた。これが江戸におけるオランダ正月の始まりで,以後毎年冬至より第11日目に賀宴を開くのが恒例となり,44回も続いた。…

【解体新書】より

…満足な辞典のないことで訳述に苦労し,中国書にない学術用語の日本訳に苦心がはらわれた。〈軟骨,神経,門脈〉などの言葉は玄白らの新造語であるが,訳名を与えられなかった言葉には,のちに宇田川玄真や大槻玄沢らが新造語を当て,また玄白らの訳名の一部改訂もみられる。〈膵臓〉などはその一例である。…

【手術】より

…これはW.T.G.モートンらのエーテル麻酔に先立つこと約40年であった。華岡流外科は中国式とオランダ式の折衷であったが,西洋外科学の直接の導入は,大槻玄沢によるハイスターL.Heisterの外科書の翻訳やP.F.vonシーボルトの外科書の日本語への翻訳による。当時の外科医としては青洲の門弟の本間棗軒(そうけん)や,順天堂をおこした佐藤泰然らが知られる。…

【芝蘭堂】より

…江戸後期の蘭方医学者大槻玄沢(おおつきげんたく)(磐水)の蘭学塾名。1786年(天保6)5月長崎遊学から江戸に帰った玄沢は,いったん杉田玄白宅に身を寄せ,のち京橋1丁目,8月本材木町に単身居を構えた。…

【太陽暦】より

…古くは戦国時代の末ころよりキリシタンの人々に利用されていたが,江戸時代の本多利明は太陽暦の便利さを説いているし,同じころ,中井履軒や山片蟠桃は太陽暦の見本を作っていた。1795年には太陽暦の1月1日に蘭方医大槻玄沢によってオランダ正月が祝われた。安政の初めころ,天文方渋川景佑によって日本最初の本格的太陽暦《万国普通暦》が刊行された。…

【蘭学階梯】より

…江戸期に刊行された最初の蘭語学入門書。大槻玄沢(おおつきげんたく)著。1788年(天明8)刊,2巻。…

【蘭学事始】より

…それには本書の再発見と初版刊行のいきさつが述べられているが,その史実には現在疑問がもたれている。大槻玄沢(おおつきげんたく)の序文のある写本によれば,玄白82歳の1814年(文化11)から起筆し病床に伏して一時期は中断,翌年に稿が成って無題のまま門弟の玄沢に渡し増補訂正を依頼した。玄沢は疑問点を質問し論議を重ね2巻本の書とし,題名を《蘭東事始》(蘭学が東漸した起源の意)にした,という。…

※「大槻玄沢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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