デジタル大辞泉
「江戸半太夫」の意味・読み・例文・類語
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えど‐はんだゆう‥ハンダイフ【江戸半太夫】
- 初世。江戸の浄瑠璃太夫。半太夫節の開祖。本名坂本半之丞。説教祭文に巧みであったが、のち浄瑠璃を江戸肥前掾に学び、貞享・元祿年間(一六八四‐一七〇四)一家をなした。正徳二年(一七一二)操り芝居を興行。寛保三年(一七四三)没。江戸半太夫の名は七世で絶えた。
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江戸半太夫 (えどはんだゆう)
江戸浄瑠璃の太夫。初世(?-1743)は修験者の子で幼名半之丞。はじめ説経祭文の上手だったが,江戸肥前掾(ひぜんのじよう)に学び浄瑠璃太夫となり,堺町に操り芝居をはじめ,歌舞伎にも出演した。貞享・元禄(1684-1704)のころ半太夫節として流行,薩摩浄雲以後江戸での名人といわれた。正徳年間(1711-16)に剃髪して坂本梁雲と号す。以後半太夫は7世まで続いたが幕末に絶えた。その曲節は,江戸では弟子の十寸見(ますみ)河東をへて河東節に移され《きぬた》《鑓踊(やりおどり)》などが伝わり,上方では地歌に〈半太夫もの〉として《意見曾我》などが伝わっている。また後世の三味線音楽に《江戸がかり》などとして取り入れられている。
執筆者:竹内 道敬
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江戸半太夫(初代)
没年:寛保3?(1743)
生年:生年不詳
江戸前期に活躍した半太夫節(江戸節)の太夫。修験者の子で幼名を半之丞といい,初め説経祭文の上手であったが,江戸肥前掾に師事して浄瑠璃太夫となり,江戸堺町で操り芝居を始めたという(『本朝世事談綺』1734)。その浄瑠璃は半太夫節といわれ,薩摩浄雲以後の江戸での名人といわれた。『声曲類纂』(1847)には,半太夫が興行を一時退転しようとしたとき,これを惜しんだ紀伊国屋文左衛門が2000両の金を貸し与えて続けさせたという逸話がみえる。一段物の稽古本はあるが,完全な正本は残されていない。正徳年間(1711~16)に剃髪して坂本梁雲と称した。享保4(1719)年,休座中の劇場を辰松座に貸して操り興行をやめる。同年刊の段物集『鳰鳥』に,江戸半太夫事坂本梁雲の名で序文を書き,同8年刊の『にほとり万葉集』には,江戸太夫隠居坂本梁雲と記している。その語り物の一部は,弟子の江戸太夫河東(初代十寸見河東)のはじめた河東節に伝承されている。弟子にはほかに,十寸見蘭州,江戸太夫双笠らがよく知られている。なお2代目以降はお座敷浄瑠璃を専門にして,「助六」にだけ歌舞伎出演していたが,その名跡は幕末の7代目で終わっている。
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江戸半太夫(1世)
えどはんだゆう[いっせい]
[生]?
[没]1743
江戸の浄瑠璃太夫。出自は坂本氏。幼名半之丞。修験者の子と伝えられる。初め説経節や歌祭文の語り手で,のち江戸肥前掾の弟子となり,江戸半太夫と名のった。貞享~元禄 (1684~1704) の頃一流を語りだし,半太夫節として世に知られた。大薩摩浄雲以後,江戸での名人といわれた。正徳2 (12) 年江戸堺町に操 (あやつり) の劇場を興したがまもなく廃座,主として歌舞伎芝居に出勤。正徳年間 (11~15) に剃髪して梁雲と号した。門下に名手が多く,特に1世十寸見河東,江戸太夫双笠は有名。
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江戸半太夫(初代) えど-はんだゆう
?-1743 江戸時代前期-中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
はじめ説経祭文(せっきょうさいもん)をかたっていたが,江戸肥前掾(ひぜんのじょう)に入門。半太夫節を創始し,江戸堺町で操り芝居を興行した。薩摩(さつま)浄雲以来の江戸浄瑠璃の名人といわれた。隠居して坂本梁雲(りょううん)を名のる。弟子に初代十寸見河東(ますみ-かとう)ら。寛保(かんぽう)3年死去。
江戸半太夫(7代) えど-はんだゆう
?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天保(てんぽう)末から嘉永(かえい)のころの家元。天保15年(1844)江戸中村座で8代市川団十郎の「助六廓桃桜(すけろくくるわのももさくら)」に出演したという。7代で江戸半太夫は名実ともにおわったといわれる。
江戸半太夫(4代) えど-はんだゆう
?-? 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天明2年(1782)江戸中村座の「助六曲輪名取草(すけろくくるわのなとりぐさ)」のとき江戸半九郎が4代半太夫を襲名したといわれているが,2代の次男判治説もある。
江戸半太夫(2代) えど-はんだゆう
?-? 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
初代江戸半太夫の長男宮内とする説もあるが,通説は次男半次郎。享保(きょうほう)4-8年(1719-23)ごろ2代を襲名。おもに座敷浄瑠璃をつとめた。号は梁珉。
江戸半太夫(3代) えど-はんだゆう
?-1781 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
2代江戸半太夫の長男。明和-安永(1764-81)のころの家元。おもに座敷浄瑠璃をつとめた。天明元年9月20日死去。初名は江戸宮内(2代)。
江戸半太夫(5代) えど-はんだゆう
?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享和-文化(1801-18)のころの家元。文化4年江戸中村座の「助六桜の二重帯(ふたえおび)」をつとめて好評を博した。初名は江戸判治。号は梁雨か。
江戸半太夫(6代) えど-はんだゆう
?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
家業は江戸日本橋の刀屋で,文政-天保(てんぽう)(1818-44)のころの家元。初名は江戸半蔵。通称は千代。
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世界大百科事典(旧版)内の江戸半太夫の言及
【半太夫節】より
…三味線音楽の一種目。初世江戸半太夫(?‐1743)が始めた曲節。貞享・元禄(1684‐1704)のころに流行した。…
【十寸見河東】より
…本名を伊藤藤十郎と伝える。江戸日本橋魚商の子で初世[江戸半太夫]の門に入り,[半太夫節]に手品節,式部節などを加えて1717年(享保2)春,江戸市村座で《松の内》を語って一派を樹立した。高弟に河丈(2世河東,?‐1734),河洲(3世河東,?‐1745)があり,初世[山彦源四郎]と河東節を完成させた。…
【山彦源四郎】より
…(1)初世(?‐1756(宝暦6)) 本名村上源四郎。初世[江戸半太夫]の弟子と伝える。1717年(享保2)初世[十寸見(ますみ)河東]と河東節創立に参加,以後4世河東まで弾き,河東節三味線のスタイルを確立した。…
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