日本歴史地名大系 「石越村」の解説 石越村いしこしむら 宮城県:登米郡石越町石越村[現在地名]石越町北郷(きたごう)・南郷(みなみごう)・東郷(ひがしごう)東南流する迫(はさま)川・夏(なつ)川に挟まれた中央部の丘陵に集落が立地、周辺の低湿地が水田をなす。東は登米郡石森(いしのもり)村(現中田町)、西は栗原郡若柳(わかやなぎ)村(現若柳町)、南は栗原郡北方(きたかた)村(現迫町)、北は磐井(いわい)郡涌津(わくつ)村(現岩手県西磐井郡花泉町)。栗原郡三迫(さんのはさま)に属し、三迫大肝入の管轄。村名の由来は遠流志別石(おるしわけいし)神社が祀られており、伝承によれば日本武尊東征の際、倭姫命より授かった明玉が霊石と化し、子石を産んだので石子石(いしこいし)村と称したという。南北朝期には北朝の勢力下にあったとみられ、元徳(一三二九―三一)、建武(一三三四―三八)、観応(一三五〇―五二)、延文(一三五六―六一)、応安(一三六八―七五)など北朝系年号をもつ古碑が点在する。戦国期は葛西・大崎両勢力の接点となったらしく、天正七年(一五七九)岩(いわ)ヶ崎(さき)城(現栗原郡栗駒町)城主富沢日向が大崎につかんとして謀反を起こし(葛西大崎盛衰記)、葛西晴信は乱平定後、大崎にそなえて千葉肥前を当村西門(にしもん)館に配したという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報