破田村(読み)わりでんむら

百科事典マイペディア 「破田村」の意味・わかりやすい解説

破田村【わりでんむら】

尾張国葉栗(はぐり)郡内にあった中世村落。現,愛知県一宮市木曾川町の内割田・外割田を遺称地とし,その一帯に比定される。松枝(まつえだ)荘のうちで,松枝荘破田郷,破田荘ともみえ,1421年以降は破田村とのみみえる。葉栗郡松枝荘は平家没官領で,源頼朝から妹一条能保室へ与えられ,能保の娘で西園寺公経室全子を経て西園寺家領となった。1220年兵部卿白川仲資王家領北山の地と交換され,以後松枝荘領家職は白川家(伯家)に相伝された。1382年白川業定王は守護による半済(はんぜい)と守護被官による押妨を避けるため,松枝荘破田郷をいったん大徳寺如意庵寄進,その後大徳寺との契約通り半済分を返却された。また年貢の収納は同寺が請け負った。だが半済は再び実施されて,1388年土岐満貞から半済分が大徳寺如意庵に寄進され,1409年には白川家が残る権益を同庵に売却。破田郷領家職はすべて大徳寺の手に入り,1427年には守護不入の地と認められた。大徳寺領としての破田村は1484年まで確認される。

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改訂新版 世界大百科事典 「破田村」の意味・わかりやすい解説

破田村 (わりでんむら)

尾張国葉栗(はぐり)郡の中世村落。現在,愛知県一宮市の旧木曾川町に内割田・外割田の大字名がある。1323年(元亨3)に〈破田荘〉とみえるのが史料上の初見。松枝荘内破田郷であったが,88年(元中5・嘉慶2)に初めて破田村とも記され,1421年(応永28)以降は破田村に統一された。平家没官領松枝保(荘)は,源頼朝の妹一条能保室から西園寺公経室全子(能保女)を経て公経に伝えられたが,1220年(承久2)仲資王家領北山の地と交換され,以後伯家(白川家)に相伝された。しかし南北朝内乱による半済と守護被官の濫妨の中で,本所分は伯家より,守護分は尾張守護土岐満貞より半分ずつ京都大徳寺如意庵に寄進され,伯家の年貢も如意庵が請け負うこととなった。伯家はその後借物重なり,ついに1409年(応永16)260貫文で破田郷を如意庵に売り渡した。領家如意庵は,守護方給人設置を排斥し,27年(応永34)には守護不入地と認められた。大徳寺如意庵領としての終末所見は,84年(文明16)足利義政御教書。
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