鎌倉~室町時代に使われた経済用語で,年貢などを半分納入すること。〈はんせい〉〈はんさい〉ともいう。
(1)年貢公事などに対して半納の意味をもつ半済は鎌倉時代からみられるが,興味ある事実は,15世紀から16世紀初頭にかけて山城国や和泉国の百姓層による年貢減免(半納)動向を意味する半済である。山城の場合,土一揆(つちいつき)を自己の軍事力として組織しようとした香西(こうざい)元長が,土民への半済給付や京の下京への地子銭免除を行ったが,これらを背景に百姓層は年貢の半済(半納)を要求していった。和泉国日根(ひね)荘の百姓も,守護,荘園領主九条家に対し半済(半納)を要求している。
(2)南北朝~室町時代になると幕府の土地政策の一つとして制度化された半済が現れる。それは南北朝内乱期に,国衙領,本所領の年貢半分を軍勢の兵粮料所(ひようろうりようしよ)として武士に与えたことから発生した制度で,内乱終了後も継承され恒常化した。観応の擾乱(じようらん)の終わった1352年(正平7・文和1)7月,幕府は内乱の激しく戦われた近江,美濃,尾張3ヵ国の本所領年貢の半分を兵粮料所として割分し,1年間を限って軍勢に預け置くよう守護に命じた。翌8月には伊勢,志摩,伊賀,和泉,河内の5ヵ国を加えて対象地域を8ヵ国に拡大した。この兵粮料所の設定が制度的な半済の出発点であった。8月令の特徴は,すでに下地(したじ)の折半が現実の問題となっていたこと,寺社一円領が本所領と区別されていたことなどである。次いで出された55年8月の半済令は,戦乱諸国での半済実施と所務の本所進止(しんし),および静謐国における半済の停止を内容とするものであった。57年(正平12・延文2)9月にも事実上の半済令が出された。この延文半済令の特徴は,戦功の恩賞や軍勢の懇望などから臨時に宛て行っていた寺社本所領の下地半分を雑掌に返付し,残り半分は後の判断に任せること,および寺社一円領と禁裏仙洞勅役料所の全面返付などである。内乱期における幕府の荘園(土地)政策の根幹であった半済は,幕府,本所勢力,在地領主層の拮抗の場の上に成立したものであり,観応以来の政策の振幅も,その重大さゆえのことであった。
68年(正平23・応安1)に至り幕府の半済政策は確立する。この応安半済令は以下のような内容をもっていた。まず半済除外地として禁裏仙洞御料所,寺社一円仏神領,殿下渡領(勧学院領以下約150ヵ所の氏長者渡荘),および足利義詮以来の本所一円知行地,月卿雲客(げつけいうんかく)(公卿と殿上人)知行下の地頭職などを掲げ,部分的に荘園制を保障する。そして上記以外の諸国本所領を雑掌と半済給人で均分するというものであった。対象国が限定されず全国的に拡大されたこと,戦乱という条件が撤廃されたこと,土地そのものの均分であったことなどが注目されよう。かくて本所領の半分は,法的にも幕府-守護-在地領主層の進止下に組み込まれたのである。半済除外地が規定どおりに守られたか否かは疑問であって,荘園制はその変質への歩みを進めたのである。15世紀に入っても半済の設定は行われた。この半済給付権は,事実上守護の握るところであり,守護の領国支配にも大きな影響を与えたのである。注目すべきことは,かの山城国一揆が綴喜,相楽の山城国2郡に半済を実施したことである。これは国一揆が,一面では守護権を継承したことを物語っている。
執筆者:田沼 睦
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室町幕府が南北朝内乱に際して、特定の国に対し、守護を通じて荘園(しょうえん)年貢の半分を、その配下の武士の兵粮料(ひょうろうりょう)や恩賞として、1年に限って給与した制度。本来半済とは年貢などの半分を納済することをいい、いわば年貢などの減免・未進を意味するものである。早い例では1197年(建久8)香取(かとり)社遷宮作料を課せられた下総(しもうさ)国印東(いんとう)荘(千葉県印旛(いんば)郡)などで、その作料米を対捍(たいかん)して半済にしたという記録(『鎌倉遺文』960号)があり、13世紀以後各地の荘園でもその事例がある。制度的に一般化するのは、戦時に兵粮米を徴収する慣行と結び付いて行われた室町幕府の半済制度である。すなわち、南北朝内乱が始まると、各地の守護が戦費調達や恩賞給与のため、兵粮料所(りょうしょ)を濫設し、南朝側でも、朝用分(ちょうようぶん)と称して臨時の徴発を行った。これによって打撃を受けた荘園領主らは、幕府にその禁止を求めたが、幕府は引き続き軍費や恩賞地を求めざるをえず、窮地にたった。そこで1352年(正平7・文和1)幕府は半済法を公布し、当時戦略上の要地であった近江(おうみ)(滋賀県)、美濃(みの)(岐阜県)、尾張(おわり)(愛知県西半部)の3か国の本所領半分について、当年作に限り兵粮料所とし、これを守護を通じて国内の配下武士に給与した。翌年には施行範囲を8か国に拡大した。初め兵粮料所の濫設を制約するねらいをもったこの半済法も、内乱が長引くにつれて恩賞地化し、さらに1368年(正平23・応安1)の半済令にみられるように、下地を分割して荘園領主と給人武士が半分ずつ領有するに至った。その後応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~77)でも、東西両軍は広範に半済を実施したが、半済地の給与管理権を握る守護は、この制度をてことして恩賞地的給与を行い、荘園制を解体に導くとともに、大名領国体制を推進していったのである。
[島田次郎]
『宮川満著『荘園制の解体』(『岩波講座 日本歴史7』所収・1963・岩波書店)』▽『小川信著『南北朝内乱』(『岩波講座 日本歴史6 中世2』所収・1975・岩波書店)』
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南北朝期に兵粮米(ひょうろうまい)の現地調達のため行われ,その後,室町幕府の土地政策の根幹となった制度。本来は年貢などを半分納入することをさしたが,やがて下地(したじ)の折半をともなうようになった。1352年(文和元・正平7)足利尊氏が寺社本所(ほんじょ)領の年貢半分を兵粮料所として守護に預けたことに始まり,その後,西国各地で守護による実質的半済が行われ恒常化する。68年(応安元・正平23)皇室・摂関・寺社一円領の半済を停止して大荘園領主を保護する一方で,その他諸国の本所領の半済を認めたため,守護領国制下での荘園の解体が進んだ。15世紀後半~16世紀に,百姓の半済(年貢半納)要求や,山城国一揆による半済実施などが確認できる。
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…〈はんせい〉〈はんさい〉ともいう。(1)年貢公事などに対して半納の意味をもつ半済は鎌倉時代からみられるが,興味ある事実は,15世紀から16世紀初頭にかけて山城国や和泉国の百姓層による年貢減免(半納)動向を意味する半済である。山城の場合,土一揆(つちいつき)を自己の軍事力として組織しようとした香西(こうざい)元長が,土民への半済給付や京の下京への地子銭免除を行ったが,これらを背景に百姓層は年貢の半済(半納)を要求していった。…
…足利方の内紛に乗じ,南朝方やそれと結びついた直冬勢は,1352年(正平7∥文和1)から61年(正平16∥康安1)にかけて,4度にわたり都に攻め入り,尊氏・義詮はそのつど近江・美濃に逃れた。52年,はじめて近江に逃れた義詮は,都を奪回して後,半済令を出した。近江・美濃・尾張3ヵ国の本所領の年貢の半分を,兵糧米として1年を限って軍勢に預けるという法令であり,翌年には伊勢,志摩,伊賀,和泉,河内にも適用された。…
…当初より本所側へ半分を渡すよう指示したにもかかわらず,給人の中にはこれを実行しない者もおり,この8月令においては年貢ではなく,下地(したじ)折中の方向も打ち出されている。さらに半済(はんぜい)の用法もみえ,寺社一円領も特別視された。軍勢発向諸国という限定的一時的政策は,55年,57年(正平12∥延文2),68年(正平23∥応安1)の半済令へと継承され,恒常的半済政策として定着していった。…
…翌86年2月13日には,宇治平等院で会合が開かれ,掟法の充実が図られた。その内容を直接に示す史料は残されていないが,月行事(がちぎようじ)の設置と半済(はんぜい)の実施が定められたものと考えられている。このときから,南山城の支配は36人衆といわれる国衆が中心となって行われることになり,この組織〈惣国〉を支配するうえでの重要事項は,集会で決められるが,日常的な政務執行は月行事が行うことになった。…
※「半済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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