百科事典マイペディア 「西園寺家」の意味・わかりやすい解説
西園寺家【さいおんじけ】
→関連項目宇野御厨|巴|鳥養牧|沼田荘|破田村
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藤原氏北家(ほっけ)閑院(かんいん)流。清華家(せいがけ)。琵琶(びわ)の家としても有名。平安末期公実(きんざね)の子通季(みちすえ)を祖とする。初め大宮(おおみや)と称し、鎌倉中期曽孫(そうそん)公経(きんつね)が京都郊外北山に西園寺を造営、以来家名となった。公経は承久(じょうきゅう)の乱(1221)に北条(ほうじょう)氏を助け、乱後その後援で代々太政大臣(だいじょうだいじん)になり、また女子を后妃に入れ外戚(がいせき)として五摂家をしのぐ権勢を示した。建武新政(けんむのしんせい)には一時衰亡したが再興し、代々大臣に昇進した。幕末徳大寺(とくだいじ)家より養子になった公望(きんもち)は明治維新に活躍し、侯爵を授けられ、さらに大正・昭和初期に元老として政界の重鎮となり公爵となった。建武新政の際に伊予に逃れた一族はその地で領主化し、8代経て戦国時代末、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国征伐に抗し滅ぼされた。
[飯倉晴武]
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…家格は平安時代末から徐々に形成され,鎌倉時代にほぼ固定して七清華といわれた。すなわち三条家(俗称,転法輪)をはじめ,西園寺家およびその分流の今出川(菊亭)家,徳大寺家(以上,閑院家流),また花山院家および大炊御門(おおいみかど)家(以上,花山院流)の藤原氏北家の流れをくむ6家に,源氏の久我(こが)家を加えた7家をいう。ところが江戸時代の初め,一条昭良(後陽成天皇の皇子)の男冬基が醍醐家を,また八条宮智仁親王の子忠幸が広幡家を興し,ともに清華家に列せられ,九清華となったが,この両家より太政大臣に昇った例はない。…
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