日本歴史地名大系 「碇ヶ関番所跡」の解説
碇ヶ関番所跡
いかりがせきばんしよあと
設置されたのは天正一四年(一五八六)で「津軽一統志」に「小田原進発の事始に羽州を御手に入られん為に、先当境の堺目たるによりて、比内浅利修理太夫実義を攻らるべきにぞ定りける。因之山寄なれはとて此時上浦平賀郡大鰐より碇ケ関迄を云ふより、比内迄初めて道を開せらる矢立の杉と云ふ大切所を切通し数の谷峰を経谷川に添岨繞て、比内郡へ打出る。則ち羽州と当国の堺にして双なき嶮岨なり。堺の此方に高陽の地あり、関所を建て警衛す。今の碇ケ関是なり」とある。この番所が重視され始めたのは、弘前藩の参勤道路が寛文五年(一六六五)これまでの西海岸の大間越経由より、碇ヶ関通に変更してからである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報