精選版 日本国語大辞典 「関所」の意味・読み・例文・類語
せき‐しょ【関所】

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交通の要衝や国境に設けて、戦時は防衛に使用し、平常時は通行者や貨物の通過を検査する門。古代には「関」または「剗(せん)」などとよんだが、正確には前者は通行者の手形などを検閲して、怪しい者かどうかを判定する所、後者は塹濠(ざんごう)や柵(さく)を設けて、その通過を阻む所をさしていった。
[丸山雍成]
わが国の関は、神功(じんぐう)皇后のとき、忍熊(おしくま)王の乱を防御するために和気(わけ)関(岡山県和気町)を設けたのが始まりといわれ、大化改新(645)によって関塞(せきそこ)の法を定めて鈴契(れいけい)を与え、大宝令(たいほうりょう)(701)に至って関の制度が確定した。当時の関剗(かんせん)としては、東海道の伊勢(いせ)鈴鹿(すずか)(三重県亀山(かめやま)市関町)、東山道(とうさんどう)の美濃(みの)不破(ふわ)(岐阜県関ヶ原町)、北陸道の越前(えちぜん)愛発(あらち)(福井県敦賀(つるが)市。のち愛発にかわって近江(おうみ)逢坂(おうさか)〈大津市〉が加わる)を三関とよんで、もっとも重要視し、非常事態には三関を閉じて防御体制を固めた。その関門は、日の出に開門して日没に閉門、関の通過には過所(過書)の携帯を必要とした。
水関を船筏(ふねいかだ)で通過する際に過所を必要としたのは、兵庫(神戸市)、長門(ながと)(山口県下関(しものせき)市)、唐津(からつ)(佐賀県唐津市)の三関である。陸上の関は、おもに東国の部族に対する防衛のもので、朝廷勢力の拡大とともに駿河(するが)横走(よこばしり)(静岡県御殿場(ごてんば)市?)、相模(さがみ)足柄(あしがら)(神奈川県南足柄市)、上野(こうずけ)碓氷(うすい)(群馬県安中市)、陸奥(むつ)白河(福島県白河市)・菊多(きくた)(いわき市。のち勿来(なこそ)と改称)・衣川(ころもがわ)(岩手県奥州(おうしゅう)市)、出羽念珠(ねず)(山形県鶴岡(つるおか)市)、あるいは「勧進帳(かんじんちょう)」で名高い加賀の安宅(あたか)(石川県小松市)などにも設けられ、古代・中世の和歌や文学作品に登場するものも少なくない。
[丸山雍成]
前代の律令制的な軍事機能優先の関は消滅して、幕府や武家、荘園(しょうえん)領主、地方豪族などが交通の要地に新関を設けて関銭(修築費、通行税、警固税からなる)を徴収する風潮が一般的となった。当時、内裏や社寺の建立・修復など諸種の名目で多くの関所が設けられたが、将軍足利義政(あしかがよしまさ)の夫人日野富子(ひのとみこ)が応仁(おうにん)の乱発生後の1478年(文明10)内裏修復の名目で京都に入る七口(ななくち)に関所を設け、その関銭を化粧料にあてて奢侈(しゃし)を極めたなど、有名な話である。1462年(寛正3)淀(よど)川べりだけで380か所の関所を数え、また参宮街道では桑名(くわな)(三重県桑名市)―日永(ひなが)(四日市(よっかいち)市)間のわずか18キロメートルの間に実に60の関所を置いて一文ずつの関銭を徴収したという。こうした新関の濫設は、商品流通を阻害するため、馬借一揆(ばしゃくいっき)などの攻撃対象となり、織田信長・豊臣(とよとみ)秀吉により関所撤廃策が打ち出された。なお、戦国大名の関所では、関銭徴収という経済的機能重視のもののほか、国境などで敵対勢力の侵入を防ぐ軍事的機能を優先するものが増加した。
[丸山雍成]
近世の関所は、「天下の険」と人口に膾炙(かいしゃ)される東海道の箱根(はこね)(神奈川県箱根町)や新居(あらい)(今切(いまぎれ)〈静岡県湖西(こさい)市〉)、中山道(なかせんどう)の碓氷(群馬県安中市)・木曽(きそ)福島(長野県木曽町)、日光(奥州)道中の栗橋(くりはし)(埼玉県久喜(くき)市)、甲州道中の小仏(こぼとけ)(東京都八王子市)などが著名であるが、これらを含めて、江戸を中心とした本州中央部の主要街道および分岐道には、天険の地を選んで50余か所(ただし、74か所まで十数説がある)に上る関所群が配置され、それはあたかも江戸防衛を目的とする一大障壁の観があった。これら陸上の関所に対して、江戸湾警備のための相模(さがみ)の三崎(神奈川県三浦市)・走水(はしりみず)(横須賀市)、伊豆の下田(しもだ)(静岡県下田市。のち浦賀〈横須賀市〉)の各海関があるが、また特殊なものとして、異国船警備のために福岡藩・佐賀藩などが交代で詰める長崎の西泊(にしどまり)・戸町(とまち)の両番所のように、幕府の関所として明確に認識されたものもあった。
近世の関所の原型は、1590年(天正18)の徳川家康の関東入国後における関所配置にあるが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い、1615年(元和1)の大坂夏の陣による徳川勢力圏の伸張とともに、配置の範囲を拡大していった。関所の機能を端的に表現するものに、「入鉄炮(いりでっぽう)に出女(でおんな)」のことばがある。「入鉄炮」とは、関東内に諸大名以下の鉄炮が入り込むことをさし、「出女」とは、江戸の藩邸に人質(ひとじち)同様に居住する大名の妻子が国元へ逃げ帰ることをいうが、関所はこの監視が主要な任務であった。こうした近世関所の軍事的・政治的機能も、泰平の時代が続くと変質して、たとえば百姓一揆の鎮撫(ちんぶ)など、治安警察的役割をも果たすようになった。そして、「出女」の改めも、当初の主対象である大名の妻子から、しだいに一般庶民のそれへと拡大していった。もっとも、関所破りは磔(はりつけ)以下の重刑に処せられ、これを防止するため関所周辺の村々は要害村に指定され、監視が義務づけられた。なお、天領や諸藩にも、関所に準ずる口留(くちどめ)番所が設けられているが、1869年(明治2)の明治政府の布達で、全国の関所はすべて廃止された。
[丸山雍成]
『大島延次郎著『関所――その歴史と実態』(1964・人物往来社)』
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…海上交通では,幕府により下田番所,浦賀番所,長崎の遠見番所をはじめ大坂,兵庫,長崎などの主要港に設けられ,利根川,淀川など主要河川にも中川番所をはじめ要所に船改(ふなあらため)番所が置かれた。陸上交通では街道に設けられた関所が番所であり,実際に関所の建物を番所と呼んでいた。各藩でも隣接する藩や天領に通じる要所に口留番所を設け,主として領内の産物が他領へ流出するのを監視し,出入りする物資に一定の割合で徴税することもあった。…
…罪人を奴婢として官や私人に隷属せしめ,その人身支配の下で労役に服させる刑罰であった。幕府の《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》は,男に誘われて関所を避け山越えした女,および関所を忍び通った女にこの刑罰を科したが,古くは磔(はりつけ),獄門,火罪(火焙(ひあぶり)),死罪の者の妻子などにも行われた。武士や町方で請う者があればその者へ下げ渡し,希望者がなければ牢屋内で使役する。…
※「関所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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