日本大百科全書(ニッポニカ) 「神尾若狭守増徴反対一揆」の意味・わかりやすい解説
神尾若狭守増徴反対一揆
かんおわかさのかみぞうちょうはんたいいっき
1744、45年(延享1、2)勘定奉行(かんじょうぶぎょう)神尾春央(はるひで)主導の年貢増徴策に反対し摂津、河内(かわち)、和泉(いずみ)、播磨(はりま)の百姓が起こした越訴(おっそ)。一揆は44年に神尾が上方(かみがた)筋に巡見に出たことから始まる。巡見の目的は先進地帯畿内(きない)で年貢増徴を図ることにあり、有毛検見(ありげけみ)法と田方木綿勝手作(たがたもめんかってさく)仕法を駆使して収奪を図った。その結果「惣公(そうこう)無民」と意識されるほどの収奪を受けた百姓は、おのおのの代官所や大坂町奉行所に減免を訴えるが拒否され、45年4月に2万人余が京都に上り内大臣などの堂上方に訴え、年貢軽減の斡旋(あっせん)を願った。この方法は、堂上方の権威を利用して幕政を撤回させようとしたものであり注目に値する。しかし神尾は百姓の反対を予期しており、これらの訴願をいっさい拒否して増徴策を貫徹させた。幕府はこの成果を背景に49年(寛延2)には全国的に有毛検見法の実施を命ずるが、その結果寛延(かんえん)~宝暦(ほうれき)期(1751~64)に全国的な年貢減免一揆を引き起こしていくことになる。
[保坂 智]