近世までの訴訟制度上の用語。二つの場合があり,第1は超歴史的な概念で,しかるべき訴訟の順序をふまない訴えのことを言い,これはいつの時代にも禁止されていた。第2は,鎌倉幕府・室町幕府のもとで存在していた再審制度の称である。
第1の場合。律令制では訴えの提起は,京においては京職(きようしき),地方においては郡司に対してまずなされるべきものであり,上訴する場合は京職→刑部省→太政官,郡司→国司→太政官と順を追うべきものとされ,その順序をふまない訴えは越訴として処罰の対象とされた。鎌倉時代においても,地頭領内の名主(みようしゆ)・百姓が地頭の承認を得ずに幕府に訴え出ることや,荘園本所の支配下にある人間が本所の承認を得ずに幕府に訴え出ることなども越訴と呼ばれて,認められなかった。
第2の場合。鎌倉幕府は訴訟制度をよく発達させたが,再審制度として越訴と庭中(ていちゆう)とがあった。庭中は奉行の不法などの訴訟手続上の過誤を理由とする再審請求である。これに対して判決内容の過誤に対する再審制度が越訴であった。初期における越訴の制のあり方は不明であるが,鎌倉時代の中期に引付が置かれると,越訴も引付で処理された。やがて1264年(文永1)に至って越訴を専門に扱う機関が設けられて,越訴方と称された。越訴方は越訴頭人と越訴奉行人とで構成される。越訴頭人には評定衆中の有力者が任じられた。越訴奉行人は常任ではなく,越訴審理の開始とともに引付奉行人の中から選任されるものであった。なお越訴頭人を指して越訴奉行と呼んだ例もある。越訴が提起されそれが受理されると,越訴方を法廷として,通常の裁判機関である引付におけると同様の訴訟審理が展開され,判決案が評定会議に送られて判決が下される。したがって越訴方は引付に対して上級審に立つものではなかった。こうした越訴方の設置は,御家人の権利保護を理念とする幕府訴訟制度の一つの到達点と評価される。
しかしこの時点は同時に,専制化を進める北条氏得宗(嫡統)権力の前に,それまで築き上げられた訴訟制度が動揺し始めた時でもあった。それは越訴制にも及んでやがて不易法が立法されるに至った。不易法は過去のある時点以前の判決はくつがえされないとするもので,越訴に提訴期限を設けるものであった。さらに鎌倉時代末期には,越訴方の廃止と復活が繰り返されるが,それは幕府権力内部における鋭い政治的対立の現れとみられる。
なお室町幕府においても越訴制の存在したことは確かであるが,その詳細は不明である。戦国大名は,六角氏,長宗我部氏のように,家法によって再審請求を禁止する方向をとった。
執筆者:山本 博也
近世では,訴訟の法に定められた順序を乱す違法な直訴(じきそ)のさまざまな方法を広く指す言葉となった。武士・公家から庶民に至るまで,一方では私的な争論を禁じ,他方では順を踏まない越訴を禁じて,訴訟の制度にもとづき大小の紛争を解決するというのが江戸幕府のたてまえであったが,実際には越訴は根絶できず,それへの対処も変化した。百姓一揆の多くは,単独か少数あるいは多数の農民の越訴行為であった。1603年(慶長8)に徳川家康が定めた郷村掟(ごうそんおきて)では,直訴を原則として禁じたが,代官が不当であるときは特別に認めた。実際には農民の領主に対する直訴は止まず,また手続を踏んだ訴訟もふえた。33年(寛永10)に幕府は訴訟手続を制度化したが,反面で直訴は全面的に禁止した。しかし,村役人が村の利益を代表して越訴することは17世紀の百姓一揆の特徴となり,18世紀にはいると惣百姓が直接に集団で越訴する強訴(ごうそ)が増加する。幕府は,1711年(正徳1)に巡見使への出訴,21年(享保6)に目安箱への箱訴を認めて越訴の特例をつくるとともに,徒党強訴をはじめ駕籠訴(かごそ),駈込訴(かけこみそ),捨訴(すてそ),張訴(はりそ)などの順を踏まない直訴行為を厳禁した。
執筆者:深谷 克己
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江戸時代、所定の手続を経ないで訴えまたは願い出ること。訴訟については、たとえば、評定所(ひょうじょうしょ)の管轄する事件であっても、訴状は寺社、町または勘定の各奉行所(ぶぎょうしょ)に提出すべきであるのに、直接評定所に提出する類をいう。直訴(じきそ)、駈込訴(かけこみうったえ)および駕籠訴(かごそ)も広い意味の越訴である。名主、代官らが訴願を取り次いでくれないときに行われたもので、直訴は将軍、大名などに直接願い出ることをいい、駕籠訴は途上で老中や領主などの駕籠に訴願書を投げ入れたり、または直接訴願することをいう。駈込訴は、通常の手続では訴願が受理されないとき、奉行所や幕府の有力者、領主の屋敷などに駆け込んで訴願することをいう。義民(ぎみん)といわれる佐倉惣五郎(そうごろう)や磔(はりつけ)茂左衛門などは有名な直訴の例であるが、一般に直訴した者は死刑の厳罰を受けた。その他の場合にも、訴願した者はいずれも処罰された。なお、鎌倉・室町時代の越訴は、判決の過誤を救済する再審請求制度であり、越訴方(頭人(とうにん)・奉行人)が審理を担当した。
[石井良助]
訴訟制度上の用語。(1)古代では所轄裁判所の判定をへずに上級官司に訴えること。中世ではそうした用法と並び,再訴の意味にも用いられた。鎌倉幕府は1264年(文永元)に越訴頭人(とうにん)を設置して手続きを定め,すでに下された判決に対する再訴を一般の訴えと区別して越訴とした。これは,それまで事実上無限定に行われていた訴えのくり返しを制御するための方策であった。(2)近世では,藩主や登城中の老中の駕籠に訴状を提出する駕籠訴や,奉行所への駆込訴(かけこみうったえ)という形で行われた。幕府は越訴の訴状は受理しないことを原則とし,不当な訴訟方法であるとしたが,重い刑罰に処すことはなかったため,半合法的な訴訟方法として定着した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…そのおもな内容は,(1)今後御家人所領の売買・質入れを禁止する,(2)すでに売買・質入れされた所領は,無償で本主に返付させる,(3)ただし買得安堵状を下付されたもの,または20年の年紀を超過したものは除外する,(4)債権債務に関する訴訟を受理しない。債権確認の下知状をもつものでも,債務不履行の訴えをとりあげない,(5)越訴(おつそ)制を廃止する,の5点である。立法直後の4月,常陸の留守所が本法令を適用し,6月には山城で徳政忌避のため売券とともに譲状が作成されるなど社会的反響はきわめて大きかった。…
…しかし小百姓が成長し,訴訟の体験を重ねることを通じて,やがて苛政に対して順を踏まない違法な直訴の方法で農民の要求を実現しようとする闘争が生まれてきた。17世紀中・後期には,惣百姓の意向を体して村役人が単独もしくは少数で直訴する村役人代表越訴(おつそ)が多かったが,そのなかから,惣百姓が徒党して直接に直訴する惣百姓強訴の闘争が発展してきた。早いものは延宝年間(1673‐81)に現れ,1686年(貞享3)の加助騒動は代表越訴と強訴の両方がみられる一揆である。…
…鎌倉末・南北朝期,朝廷の記録所や院の文殿(ふどの)に庭中と呼ぶ訴訟手続があり,暦応雑訴法の規定では,手続の過誤の救済を求めるものと思われる。鎌倉・室町両幕府法では,手続の過誤の救済を求める特別訴訟手続をいい,内容の過誤の救済を求める越訴(おつそ)=再審請求とは厳密に区別される。鎌倉幕府の場合,(1)関東では評定の座で訴える御前庭中と引付の座で訴える引付庭中とがあるが,いずれも口頭で訴える,(2)六波羅探題には庭中奉行があって,庭中申状を提出する,の二つの制度があった。…
…佐倉惣五郎のような伝説的義民が生みだされるのは,このような時期である。惣百姓結合を土台にしているが,形態は村役人越訴(おつそ)闘争が中心になる。それは単独の行動から若干名の行動までさまざまであるが,惣百姓がそのまま参加するのではない点で共通する。…
※「越訴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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