福原 有信
フクハラ アリノブ
明治・大正期の実業家 資生堂創業者;帝国生命保険創立者。
- 生年
- 嘉永1年4月8日(1848年)
- 没年
- 大正13(1924)年3月30日
- 出生地
- 安房国松岡村(千葉県館山市竜岡)
- 別名
- 幼名=金太郎,前名=友斎
- 主な受賞名〔年〕
- 緑綬褒章〔大正10年〕
- 経歴
- 医家に生まれ、元治元年(1864年)17歳で江戸に出て織田研斎について医学を修め、慶応元年(1865年)18歳の時松本良順について幕府医学所に学ぶ。明治2年東京病院雇、大学東校中司薬雇を経て、4年海軍病院薬局長となる。5年官を辞し、東京京橋に開陽院診療所を開設。同時に薬局資生堂を、翌年薬種販売業資生堂を開き、医薬分業による民間調剤薬局をはじめる。13年新制の薬剤師試験に合格、登録、15年東京薬会を創立し、会長。以後、大日本製薬会社、内国製薬会社を創立、また日本薬剤師連合委員長をつとめるなど、日本の製薬業発展に貢献。21年帝国生命保険会社を創立し、保険事業の発展にも尽力した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
福原有信
没年:大正13.3.30(1924)
生年:嘉永1.4.8(1848.5.10)
明治大正期の実業家。安房国松岡村(千葉県館山市)生まれ。漢方医であった祖父有斎の影響を受け,医者を志し,17歳のとき江戸に出る。翌年幕府医学所に入り本格的に西洋薬学を勉強した。明治2(1869)年に東京大病院(東大)の中司薬(職員)に採用され,4年には海軍病院薬局長に任じられる。5年に官を辞し,わが国最初の民間洋風調剤薬局,資生堂薬舗会社を開業する。7年には優良な医薬品の提供のため,東京製薬所を設立。17年政府の協力のもと,大日本製薬会社設立。資生堂は30年ごろから化粧品の製造販売も手がけ,その後は徐々に化粧品中心に移行していく。21年帝国生命保険会社(朝日生命)を設立,26年より社長に就任。後半生は保険業界での活動の比重が高まった。<参考文献>永井保・高居昌一郎編『福原有信伝』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
福原有信 ふくはら-ありのぶ
1848-1924 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)元年4月8日生まれ。幕府医学所で医学をまなぶ。明治4年海軍病院薬局長。5年東京京橋に洋風薬局資生堂を開業し,30年から化粧品業へ進出。また大日本製薬,帝国生命保険(現朝日生命),内国製薬などを創立した。大正13年3月30日死去。77歳。安房(あわ)(千葉県)出身。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
福原 有信 (ふくはら ありのぶ)
生年月日:1848年4月8日
明治時代;大正時代の実業家。日本薬剤師連合会委員長
1924年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の福原有信の言及
【資生堂[株]】より
…日本の化粧品のトップ・メーカー。1872年(明治5)海軍病院薬局長を辞職した福原有信らが三精社を設立し,同社経営の日本初の民間洋風薬局資生堂を東京銀座に開店。88年日本初の練歯磨き〈福原衛生歯磨石鹼〉を,また97年の化粧水オイデルミンなどの発売により化粧品事業に進出した。…
※「福原有信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」