日本歴史地名大系 「福手村」の解説 福手村ふぐてむら 栃木県:芳賀郡茂木町福手村[現在地名]茂木町福手小山(おやま)村の東、逆(さか)川の支流鮎田(あゆた)川の上流部に位置する。近世を通じほぼ常陸谷田部藩領。慶安郷帳に村名がみえ、田一〇二石余・畑四三石余。寛政七年(一七九五)には家数三五・人数一四五、馬二七(「御巡見邑割并村高人別家数覚」山納武雄文書)、天保七年(一八三六)には人数一四八(尊徳全集二三)、慶応三年(一八六七)には人数二三〇(「茂木領奥州白川人足覚帳」見目荘造文書)。正徳五年(一七一五)の日光法会の際には壬生(みぶ)通奈佐原(なさはら)宿(現鹿沼市)の増助郷を勤め(茂木のあゆみ)、安永五年(一七七六)の日光社参時には人足一・馬一の日光街道鉢石(はついし)宿(現日光市)詰を命じられている(尊徳全集二三)。 福手村ふくてむら 岐阜県:郡上郡八幡町福手村[現在地名]八幡町相生(あいおい)長良川と那比(なび)川の合流点に位置し、那比川上流は寺本(てらもと)村、長良川対岸は千虎(ちとら)村。正保郷帳に田方六石余・畑方五六石余とある。宝暦一四年(一七六四)写の郡上郡絵図(千葉家蔵)では、当村にあたる地域に中山(なかやま)村が記される。この中山村は、記載順および村高からみて、元和二年(一六一六)の村高領知改帳の中山村高七三九石余で、慶長郷帳の中野(なかの)村にあたるとみられる。中野村すなわち中山村がその後幾つかの村に分村し、その一部が宝暦一四年写絵図の中山村で、のちの福手村とみてよかろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報