福良庄(読み)ふくらのしよう

日本歴史地名大系 「福良庄」の解説

福良庄
ふくらのしよう

福良湾の福良湊を中核として成立した庄園。建久三年(一一九二)三月日の後白河院庁下文案(大徳寺文書)に後白河院の寵妃丹後局(高階栄子)知行所として「福良庄 高野宝塔三昧院領」とみえる。本家職が後白河院から丹後局に与えられ、この時に大嘗会・造内裏以下の勅院事国役以下の課役を免除されている。領家職は後白河院祈願所の紀州高野山宝塔三昧ほうとうさんまい(のち宝幢院)に寄進されていた。本家職は丹後局没後、娘の宣陽門院(後白河皇女)に伝領され、領家職は宝幢ほうどう院とともに丹後局息の平業兼(尋蓮か)から貞応元年(一二二二)八月嫡子業光に譲渡され(「沙弥尋蓮譲状案」勧修寺家文書)、ついで業光は母没後の嘉禎三年(一二三七)二月八日、相伝家地を御堂(無対光院)にして丹後局の菩提を弔うため当庄ほかを妹の治部卿局に譲った(「平業光・光蓮連署譲状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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