秋里村(読み)あきさとむら

日本歴史地名大系 「秋里村」の解説

秋里村
あきさとむら

[現在地名]鳥取市秋里・商栄町しようえいちよう松並町まつなみちよう一―三丁目

江津えづ村の南、千代川西岸にあり、集落は自然堤防上にある。戦国時代には当地を名字の地とする武士秋里氏がおり、天文一〇年(一五四一)七月一二日の某感状(因幡民談記)では、秋里弥左衛門が岩井いわい(現岩美町)合戦での働きを山名誠通とみられる某氏から賞されている。永禄六年(一五六三)に山名豊数が天神山てんじんやま城を攻撃されて退去したとき、これに従った秋里与四郎は法美ほうみ坊垣ぼうがき(卯垣)一〇〇石を与えられた(同年一二月一一日「山名豊数宛行状」譜録)。同人は同八年には豊数の後継者と考えられる山名豊儀から江津内の地などを与えられ(同年三月「山名豊儀宛行状」同書)、元亀元年(一五七〇)には豊数の弟豊国に従い岩井池谷いけだに(現岩美町)で合戦した(同年五月晦日「山名豊国感状」同書)。秋里新左衛門は天正九年(一五八一)の鳥取城籠城にも参加した(「秋里新左衛門申状」因幡民談記)一族のうちある者はそのまま毛利家家臣となり、また当地にとどまりのち鳥取池田家家臣となった者もあった(「秋里新左衛門家譜」県立博物館蔵)

寛文大図(倉田八幡宮蔵)によると、千代川沿岸に南の安長やすなが村から連続する土手が築かれ、集落付近に「秋里玄蕃屋敷」「亀井武蔵守蔵屋敷」「水漉場」「大浄寺跡」「浅野長政陣所」などが描かれている。これらの名称がどれだけ史実を伝えているかは不明だが、江戸時代初期に数々の遺構が存在したのはまちがいない。とくに「浅野長政陣所」は土塁をめぐらせた「呂」字状遺構の周囲に水を湛えた堀が設けられた様子が鮮明に描かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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