三島神社(読み)みしまじんじや

日本歴史地名大系 「三島神社」の解説

三島神社
みしまじんじや

[現在地名]三間町宮野下 坂井杜

宮野下みやのしたの街の曾我そが山の麓にあり、祭神は大山積神。旧郷社。

天平一〇年(七三八)越智おち大三島おおみしまより勧請。「吉田古記」によると、中世には成妙なるたえ郷・吉藤よしふじ郷・百姓分ひやくしようぶん郷の三間三郷四五ヵ村の総鎮守となり、末社の数は一一二社に及んでいる。天正一五年(一五八七)戸田勝隆により社領を没収され、一時衰微した。そののち藤堂高虎が宇和郡七万石に封ぜられ、寺社の復興に努めた。「吉田古記」に、

<資料は省略されています>

とあり、高虎が当社に二〇石の社領を寄進している。

江戸期に入り、吉田藩主伊達氏は当社を祈願所にすると同時に、再び三間三ヵ郷の総氏神としている。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]伊予三島市宮川一丁目

かみ元冠岡もとかんむりがおかにあり、祭神は大山積神(主祭神)・上津比神・下津比神・高神・雷神。旧県社。

寛政九年(一七九七)の三嶋村明細帳に「三島宮大山積大明神 別当 善法寺 興願寺」とあり、さらに

<資料は省略されています>

などとあり、祠官も二氏あって大社であった。現在の社殿は明治二三年(一八九〇)建立のものであるが、延徳二年(一四九〇)建立の旧本殿も現存している。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]宇和町卯之町

神領じんりようの丘陵に鎮座。祭神は大山積命・別雷神・高神の三神。旧県社。

社記によると、承平六年(九三六)藤原純友の乱で河野好方が純友追討を三島神社の加護として同地に勧請し、嘉禎年間(一二三五―三八)以降は西園寺氏の産土神となったという。

宇和旧記」は、三島大明神は光長という人物が永長ながおさ郷の氏神として大三島おおみしま(現越智郡大三島町の大山祇神社)を勧請し、俵津たわらづ(現明浜町)に着船、社地を神領村の大蔵おおくら山に定め、京都吉田家から左衛門・右衛門の二太夫を招請して造営したという。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]野村町野村

村の町から三島みしま橋を渡ってやや南に歩いた地に鎮座。本殿・中殿・拝殿などが完備する。祭神は大山祇神・伊賀突智神・高於加美神。旧郷社。

「宇和旧記」の伝える神社の歴史はまず建久三年(一一九二)宇和郡地頭の橘公業によって開基された。公業は伊予国警固使として藤原純友を討伐した橘遠保の後裔で、須智山すちざん(のちの周智郷か)で開発した水田を当社に寄進した。嘉禎二年(一二三六)には宇和郡が太政大臣西園寺公経領となり西園寺氏に保護された。仁治二年(一二四一)一二月五日、暦応四年(一三四一)一一月二六日、応永一八年(一四一一)三月一一日に、それぞれ再興されている。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]臼杵市井村 熊崎

熊崎くまさき川下流右岸の台地上、狭間はさまにある。旧郷社。祭神は大山積命・雷神・高神など。梅の木を神木とする。徳治二年(一三〇七)伊予国の豪族河野通有の子柚ノ木谷八郎通忠は、三島神社(現愛媛県大三島町大山祇神社)の分霊を奉じて渡海し芝尾しばおに着岸、同地に社殿を造営して奉斎した。翌延慶元年(一三〇八)神託により現在地に遷宮したという(「寺社考」など)。芝尾の旧社地には巨大な椎木があり、現在も同地の人々によって祭祀が行われている。大友宗麟は丹生島にゆうじま城の守護のため当社を尊崇し、青銅・荒布・鉾を寄進したという(神社明細帳)。かつては毎月卯の日を例祭日とし、とくに四月第一卯の日には卯の市が立てられ活況を呈したという(寺社考)


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]総和町水海

水海みずうみ集落南部、水海沼・利根川・釈迦しやか沼を望む台地に鎮座。石鳥居献額に「正一位三嶋大明神」、鳥居に「奉造立石 安永八己亥四月吉日建之 下総国葛飾郡関宿領願主町水海村 惣氏子中敬白」と刻む。境内に杉の木立が茂る。祭神大山祇命。旧村社。「下総旧事考」に「三島明神社、在水海村、祀大山祇命、相伝影祭伊豆三島神(中略)社領五石慶安二年己丑八月付」、また「水海村三島明神社鰐口識、下総国下河辺野方荘郡山郷三島大明神御宝前鰐口、于時文亀三年癸亥八月日、大檀那平右京亮政助、大通神宮寺、権大僧都良法印」とある。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]葉山村姫野々 大宮

姫野々ひめののの西端に鎮座。祭神は大山積大神。旧郷社。津野氏の祖津野経高が伊豆国より勧請したと伝える。一説に伊予の河野家から津野春高の養子となって入国した津野之高が、伊予から勧請したともいう。三島神は津野氏の氏神で、伊予から檮原ゆすはら(現檮原町)を経て東行する檮原街道沿いには三島社が多い。

天正一六年(一五八八)の津野惣郷神社帳に「本社三間、舞殿三間、横殿四間」とあり、同年の津野半山地検帳も三反余の神田や神主屋敷などを記す。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]双海町高岸

高岸の亀の森たかぎしのかめのもりにある。主祭神は大山積神で雷神・高神を配する。境内社には淡島神社・猿田彦さるたひこ神社などがある。旧郷社。

社伝によれば、和銅五年(七一二)八月の詔勅により、神亀元年(七二四)越智おち大三島おおみしま鎮座大山積おおやまづみ神社より勧請奉斎し、伊予一四郡各郡一宮の一に列せられ、湯並ゆなみ郷八ヵ村の大氏神である。社記に神亀元年の勧請について「其時神亀海上を守護し奉りて、此地に登れりと伝ふ、依て此地を亀之守(亀の森)と唱ふ、社頭村内等格別の吉凶ある毎に霊亀社前に浮び来ること屡々なり」とある。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]満濃町長尾 浦山

しろ山南東麓の浦山うらやまに鎮座する。祭神は大山祇命・事代主命・八幡大神、瀬織津姫命ほか五柱を合祀する。旧村社。寛文九年(一六六九)の「御領分中宮由来」に三島大明神、内証十一面観音とあり、細川頼之に従って讃岐国鵜足うた長尾ながお郷で所領(職)を与えられ、西長尾城主長尾大隅守の客将となっていたという久米盛重が、貞治三年(一三六四)頼之に従って伊予の河野攻めに出陣し、三島神の加護によって武功を立て、三島神を城内に勧請したと記す。創祀は応安四年(一三七一)頃と伝える。天正一三年(一五八五)に長尾氏が衰退したのち久米氏は郷士となって長尾村に土着し、寛永元年(一六二四)から正徳五年(一七一五)まで約九〇年間、四代にわたって鵜足郡の大政所を勤めた(「由緒覚」久米文書)


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]小松町新屋敷 舟山

新屋敷しんやしきの西部の舟山ふなやまの東南隅にある。祭神は大山積大神・高大神・雷大神・十六皇子神、配神には井河神・小松藩主など。旧郷社。

創建はつまびらかでないが「小松邑誌」に「新宮大山祇大明神 井手郷本社社記曰聖武帝御宇天平年中河野益雄卿勧請」とあるが異伝もある。古くは玉之江たまのえ(現東予市)にあった社殿を新宮原しんぐうはら(現新屋敷字新宮)に移したとも伝えられ、河野家よりの境内八町永代寄附状があったともいう。中世には度々兵乱に遭い、福島正則は社林を伐採し社殿を壊したが、加藤嘉明が修築したなどとも伝えられる。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]君津市宿原

字三島に鎮座し、祭神は大山祇命、旧村社。境内は老杉の巨樹が鬱蒼と茂る。社伝によれば、伊豆国の三島神社(現静岡県三島市)を移し祀ったという。元亀年中(一五七〇―七三)に本社および別当寺ともに火災にかかり、什宝・古文書など灰燼に帰し創建年月不詳。江戸時代には当地の領主旗本曾根氏の祈願所で、春秋の大祭に献供米の式を行ったという。元禄二年(一六八九)本殿・拝殿に大修繕を加えた(君津郡誌)。棟札によれば同年薬師如来堂を修復し、享保一五年(一七三〇)には三島大明神仮屋を新たに造立した。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]城川町土居

甲之森かぶとのもりの麓、老杉に囲まれた閑静な地に鎮座。祭神は大雷神・大山祇命・高神。旧郷社。

永保元年(一〇八一)越智郡大三島おおみしま大明神(大山祇神社)を勧請し、周智すち郷の大氏神とされた。「宇和旧記」は多くの末社・境内社を述べ、「如此の大社にて、社領五拾貫にて、月次の神事相勤之由也」と記す。また、永禄元年(一五五八)大檀那越智朝臣左衛門太夫(紀親安)らが鳥居を建立したと伝え、越智氏を称する北之川殿の庇護を得ていたことを示唆する。慶長一九年(一六一四)、文政一〇年(一八二七)の再建棟札がある。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]柏崎市剣野町

川の左岸、対岸枇杷島びわじま鵜川うかわ神社がある。祭神は大山祇命と富士浅間。「延喜式」神名帳の三島郡六座のうちに「三嶋ミシマノ神社」とある。天平一二年(七四〇)の勧請といい、刈羽郡の古称三島みしま郡の名も当社に由来するという(白川風土記)。年欠七月二〇日の某黒印状(三島神社文書)には、三島大夫に宛て当社造営のための社領を安堵している。慶長三年(一五九八)一二月二三日の堀直政寄進状(同文書)では田地三反の寄進を受けている。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]保内町宮内

昔は中島三島神社といい、保内入船ほないいりふね明神とも称したと伝えられる。現祭神は大山積命・雷公神・高神。社伝によると、宝亀五年(七七四)宇和郡司による鎮座といい、保内郷の総鎮守となったという。旧郷社。

「宇和旧記」に「此社廻り、木のはえ茂りたる躰を遠見すれば、其儘船の形也、世に是を入船の明神と云、又一説に熊野より舟にて来らせ給ひ、其儘出船せんとし給ふ所に、引止め申内干汐になり、船はすはり申よし、依之出船の明神とも申由」とある。また、社殿大破につき寛文六年(一六六六)から再興の企てがあり、翌年正月二代宇和島藩主伊達宗利が白銀三枚を寄進したと記す。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]檮原町檮原東 宮首

檮原の町はずれ、檮原川の右岸宮首みやくびに鎮座。祭神は雷神・大山祇命・高神。旧郷社。延喜年中(九〇一―九二三)津野経高が伊予国浮穴うけな山内やまうち(現愛媛県上浮穴郡柳谷村)より当国へ移った時、伊予の三島大明神を勧請したとも伊豆より勧請したとも伝える。「地頭藤原瑠璃磨修造司長谷部了珍」と記す長禄三年(一四五九)一一月吉日付の棟札や、元和六年(一六二〇)・享保一三年(一七二八)・延享二年(一七四五)の棟札がある。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]小田町臼杵

祭神は大山積命・雷公神・高神。旧郷社。社伝によると創建は天応元年(七八一)大三島より勧請とある。

天授元年(一三七五)にこの社の祭礼料五貫文が前讃岐守から寄進されていることからみて由緒ある古社であることが知られる(臼杵三島神社文書)

<資料は省略されています>

相殿の田井神社には松王小児命を祀るという。松王小児は讃岐国香川郡の田井民部の子で二条天皇の時代、大納言国綱に勅して摂津国兵庫に築地をつくらせた時、自ら請うて人柱となり築地の守護神となった。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]東山区上馬町

馬町うままち通北側に位置。三島明神とよばれた。旧村社。「京都府地誌」によれば、祭神は大山祇おおやまつみ命・火瓊瓊杵ほのににぎ尊・木花咲耶このはなさくや姫。祭日は九月一六日。また同書は「永暦元年庚辰、後白河上皇ノ勅ニ依テ、摂津国三島江村三島鴨社ヲ勧請ス」と説く。伝えでは、後白河天皇の中宮建春門院(平滋子)が摂津三島鴨みしまかも社に祈念して高倉天皇を出産したことから、平重盛に命じて愛宕おたぎ郡朝岡山の地に社殿を造営し祀ったのに始まるという(坊目誌)


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]津島町北灘 鵜ノ浜

はまの北部の山間に位置する。祭神は大山祇命。旧村社。

創建の年代は明らかでない。「宇和旧記」には六枚の棟札銘の写が収録されている。最古のものは元弘元年(一三三一)造営の時のもので、願主は沙弥定円・前薩摩守沙弥妙通・豊後守沙弥智本・刑部左衛門尉沙弥誠伝・左兵衛尉橘範・左近将監橘元村である。以下文安三年(一四四六)・享禄三年(一五三〇)・天文二一年(一五五二)・元和八年(一六二二)・寛永一二年(一六三五)のものがある。

右でとくに注目すべきは天文二一年までの棟札に願主として橘姓のものが記されていることである。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]十和村昭和

仲又なかまた(三島山)に鎮座。祭神は大山祇神・鳴雷公神・高神。旧郷社。もとは三島大明神と称し、四手しで村・大井川おおいがわ村・野々川ののがわ村・とどろ村の氏神として祀られてきた(皆山集)。「土佐州郡志」は「相伝永正年中勧請于此」とし、「皆山集」には「社帳云、古上山之牧主田那部氏伊豆国ヨリ勧請之由云伝、永正十年天文十六年天正六年慶長以来之棟札有之、古寄付之神田有之由」とある。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]久万町菅生

菅生すごうの南部、久万川を西に見下ろす山麓に鎮座する。祭神は雷神・大山津見神・高神。旧郷社。「菅生村三島宮之因縁」は次のように伝える。

<資料は省略されています>

社殿は間口九・八四メートル、奥行一一・四メートル、入母屋造、慶長八年(一六〇三)松山城主加藤嘉明の重臣佃十成の再建といわれ、貞享年間(一六八四―八八)の修理を経て昭和三七年(一九六二)大修理を行った。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]徳島市西大工町五丁目

山の北東山裾にある。旧村社。主祭神は大山祇神。社伝によれば、伊予の河野通久が承久三年(一二二一)富田とみだ庄の地頭として当地を支配したとき、伊予国大三おおみ(現愛媛県大三島町)大山祇おおやまづみ神社から分祀し、鎮守の社として創建したという。「阿波志」は蜂須賀至鎮の夫人敬台院の菩提寺敬台きようだい寺の後ろにあるとし、この地を北新邸といって元和年中(一六一五―二四)河野氏がここにおり、祀ったのが伊予三島神であると記す。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]柳川市西蒲池

西蒲池にしかまちの中央東寄りにある。祭神は大山祇命・伊邪那美命・大山咋命・武内宿禰命・素盞嗚命。旧郷社。縁起などによると、天治二年(一一二五)に蒲池出羽守によって伊豆三島社(現静岡県三島市)から勧請されたと伝え、以後産土神とされてきた。しかし天正九年(一五八一)の蒲池氏滅亡の際、龍造寺勢によって破却され旧記も失われたという(三嶋大明神縁起・南筑明覧)。同一五年には立花統虎(宗茂)により社殿が造営され(南筑明覧)、一〇月二四日には蒲池三島大宮司鴨角民部丞宛に蒲池のうち「うちうしやく」「ふつる」「せんそく」「すけ原之内」の八反半が社領として寄付された(「立花統虎坪付」鴨角家文書)


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]大月市駒橋一丁目

駒橋こまはし集落の西端にある。江戸時代には大月・駒橋両村の間に鎮座し、両村の産土神であった(甲斐国志)。祭神は大山祇命で旧郷社。当社および都留市田野倉たのくらの三島神社、殿上とのうえの三島神社の三社はともに古くは大松山三島明神と称していた(社記)。これは殿上・駒橋の南方背後に連なる尾根(大松山)にあった松の古木を三段に切って三体の神像を造り、その本木の一体を田野倉に、当社には中段の一体を、殿上には末方の一体を祀り、それぞれ先宮・中宮・末宮と称したことに由来するという(甲斐国志)


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]宇部市大字藤曲

居能いのう浦の中央部に鎮座。現社地は、もと犬尾いのおの海岸にあった砂州の東端にあたる。祭神は大山祇神・少童神・厳島神。

貞享四年(一六八七)阿川毛利氏が居能開作築立の守護神として八大竜王を祀ったことから竜神社といい、通称は水神社といわれた。しかし萩藩の御根帳入りの神社でなかったため、淫祠として天保一三年(一八四二)社殿を解体。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]東津野村北川 大地

大地おおちに鎮座し、大山祇神を祀る。旧村社。天和元年(一六八一)の勧請と伝え、明治四一年(一九〇八)に村内みやうね山津見やまつみ神社を合祀。例祭一一月一三日。

境内に農村歌舞伎舞台(国指定重要有形民俗文化財)があり、昭和前期まで毎年秋の神祭に地芝居が演じられていた。本殿に並んで接続する入母屋造茅葺平入の建物で間口七・一七メートル、奥行五・三メートル、床高一・一七メートル。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]周東町大字下須通

下須通しもすどおり生駒いこま山に鎮座。「神社明細書」によれば、祭神は大山祇命・木花咲耶姫命・高・雷神。嘉禄二年(一二二六)河村備後という人が伊予国大三島(現愛媛県越智郡)から分霊を移して創建した、上須通村・下須通村の産土神であるという。「享保増補村記」は「往古ハ神幸アリシモ中絶セリ、享保十一年ヨリ再ビ御幸アリ、勧請ノ由来不分明、今、神田・鉾田ナドイフ所ハ三島ノ社領ノ内ナリト申伝、二王門跡、阿弥陀堂跡ト称スル所、鳥居ノ傍ニアリ」という。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]喜多方市上三宮町上三宮

青山あおやま西にし城跡の北側に位置する。大山祇命を祀り、旧郷社。加納かのう庄の領主佐原(加納)五郎盛時が伊豆三島大社(現静岡県三島市)の分霊を当地に勧請したのが草創といい、承久三年(一二二一)社殿が落成したと伝える。また盛時は三〇貫文の地を当社に寄せ、以後、佐原氏代々に尊崇されたという(「耶麻郡誌」など)。近世には高村氏が神職を勤め、「新編会津風土記」によると、同氏の祖は大和国の出身で、元和七年(一六二一)権太夫義景の代に京都吉田家より免許状が与えられている。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]美都町板井川

若杉わかすぎ集落の北東にあり、斎藤家所有の神社。祭神は三島大明神・河内大明神・稲荷大明神・若杉善左衛門。三島大明神の勧請時期は不明だが、正徳元年(一七一一)社殿建立の旨が文化三年(一八〇六)の棟札にみえる。河内大明神・稲荷大明神は慶応三年(一八六七)の勧請であることが棟札から知られる。若杉善左衛門が祀られたことについては、伝説によるとある代の善左衛門が山廻り役として藩有の山林無断伐採者を摘発したところ、盗伐者が山伏に頼んで善左衛門を調伏死させたといい、その祟りを恐れて罪を悔い祀ったという。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]五十崎町北表 北浦

肱川ひじかわ町境に近く標高五〇〇メートルの山中にあり、桂・橡・楓・杉などの老木巨樹の社叢に包まれている。主祭神は大山祇神。旧郷社。延享元年(一七四四)越智おち大三島おおみしまより大山祇神を勧請した。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]宇和島市宮下

来村くのむら川右岸の尾串おぐしの森にある。祭神は大山積命・木花開耶姫神・岩長姫神。旧郷社。

社伝によると、大同元年(八〇六)四月二三日、大三島の大山祇おおみしまのおおやまずみ神社から勧請したという。「宇和旧記」所載の当社神鏡の裏書に「永仁五年歳次丁酉八月廿二日癸丑日 橘忠重」とみえ、当社と橘氏との関係がうかがえる。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]長浜町櫛生

長浜の南西六キロの櫛生くしゆう海岸から東へ一キロ、標高七〇メートルの高台に鎮座。旧郷社。

社伝によれば、伊予国主越智玉澄が天平一二年(七四〇)に、現在の字大峰おおみねの地に小祠を建て三島大明神を勧請したという。のち火災により、正徳六年(一七一六)現在地に移転した。安永四年(一七七五)社殿修復の棟札がある。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]内子町川中

内子町の北端、伊予郡境近く中山なかやま川東岸の高台に鎮座。祭神は大山積神・雷公神・高神。旧郷社。和銅年間(七〇八―七一五)以前の創立と伝える。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]北条市中通 三島

大山積神・高神・雷神を祀る。旧村社。

由緒書によれば神亀五年(七二八)八月二三日越智玉澄が伊予各郷に大三島おおみしま(現越智郡)より三島大神を勧請し、神殿を建営した社のうちの一つであると伝える。「新編温泉郡誌」「伊予国風早郡地誌」によると、河野通信・通有・通純・通村・通綱らの崇敬により神領水田が寄進され、天正一三年(一五八五)河野氏滅亡後は神領を没収され、宝物・古文書類も散逸して衰退したが、その後地元民の手で復興された。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]広田村総津

祭神は大山積命・雷公神・高神。旧郷社。古くは三島大明神社とよび惣津そうづ村はじめ近郷九ヵ村の総鎮守であった。社記は大宝二年(七〇二)春天皇勅願によって国司河野玉興に命じ古社を建立し、浮穴うけな郡の総鎮守と定め、今日に至るとしている。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]三瓶町蔵貫浦

祭神は若雷神・大山祇神・高神。旧郷社。社伝によれば神護景雲二年(七六八)の建立で、室町末期に兵火のため焼失し、貞享四年(一六八七)に現社地須賀森すかのもりに遷座し、領主・村民の崇敬を受けて今日に至ったという。


三島神社
みしまじんじや

[現在地名]双海町上灘

祭神は大山積命・雷命・高神、相殿に河内社がある。社伝では神亀五年秋八月二三日の詔勅によって鎮座という。創立ならびに由緒は明らかでない。旧郷社。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「三島神社」の解説

三島神社

愛媛県東温市にある神社。14世紀中頃に建てられた本殿は国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の三島神社の言及

【葉山[村]】より

…姫野々の中央に鎮座する白雲神社は,その築城に際し四方固めの神社として勧請したものという。同じく姫野々の三島神社,また永野の春日神社も津野氏の勧請と伝え,この両社では例祭に花取り踊が奉納される。新荘川に沿って須崎市から国道197号線が通じる。…

【東津野[村]】より

…また津野山郷一帯の氏神の秋祭に奉納される津野山神楽は国指定重要無形民俗文化財〈土佐の神楽〉の一つ。北川の三島神社境内にある農村歌舞伎舞台は国の重要有形民俗文化財。なお吉村寅太郎は村内芳生野(よしうの)の出身で,吉村家は代々庄屋を務めていた。…

【保内[町]】より

…東洋紡績の工場閉鎖により一時人口が激減した。宮内に鎮座する三島神社には,鎌倉期のものと考えられる神像(相撲人形)5軀と懸仏1面が伝わる。宮内川沿いに国道378号線,東西に197号線が通じる。…

【三間[町]】より

…三間川沿いの三間盆地は肥沃で,気候も温暖多雨である。盆地中央の宮野下は,大三島より勧請されて一帯の惣鎮守として信仰された三島神社の鳥居前にあり,江戸時代には吉田藩領の在郷町として栄えた。農業を基幹産業とし,米は〈三間米〉として知られ,ほかに酪農,養豚,養鶏,タマネギ栽培などが行われる。…

※「三島神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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