日本歴史地名大系 「秦上郷」の解説
秦上郷
はたのかみごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠くが、「波多之加美」とよばれていたとみられる。天平宝字六年(七六二)六月二一日の檜皮葺工請功食解(正倉院文書)に「津国手島郡上秦郷」とみえる上秦郷は、この郷と同一と考えられる。天平神護元年(七六五)の造東大寺司移(同文書)に記される豊島郡の散位正八位上秦忌寸豊穂、「続日本紀」神護景雲三年(七六九)五月二二日条の秦井手忌寸、「新撰姓氏録」(摂津国諸蕃)の秦人・秦忌寸などから、この秦上郷と秦下郷の地が、山城・大和・河内の諸国とともに、渡来系の有力氏族である秦氏の畿内における一つの拠点をなしていたことが推定される。井手の姓からすれば、井堰を建設するなど農業生産に寄与した一族もいたとみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報