旺文社日本史事典 三訂版 「稽古館」の解説
稽古館
けいこかん
②江戸時代,津軽(弘前)藩の藩校
1799年井伊直中が設立。1830年館制を改革して弘道館と改称,幕末には和学・兵学なども加えた。
1796年津軽永孚らが設立。古学・朱子学のほか幕末には洋学も行った。
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…街道の往来が盛んになると,甲賀郡の信楽焼,売薬製造,愛知郡の挽物,坂田郡の伊吹もぐさなどの需要が増大した。
[文化と学問]
近世中期以降,諸藩で藩校の設立がみられ,1799年(寛政11)彦根藩の稽古館(1830年弘道館と改名),1808年(文化5)膳所藩の遵義堂をはじめ,水口藩の翼輪堂,大溝藩の修身堂,西大路藩の日新館と,つぎつぎに建った。また近江出身の学者では,中江藤樹が高島郡上小川村,崎門派三傑の一人浅見絅斎(けいさい)も高島郡太田村出身で,絅斎の弟子に犬上郡郷士の若林強斎,木下順庵に学んだ伊香郡の雨森芳洲ら儒者がいた。…
…のち草庵に住み,仏典のほか儒学や国学を研究し,毎年2回諸国を行脚(あんぎや)して過ごした。寛政年間(1789‐1801)藩主の命で諸藩の学制を調査し,その結果が熊本の時習館を手本とした彦根藩校の稽古館の設立となった。海量はつねに粗衣粗食の生活を送り,玄米を常食として行脚の途中で糧が尽きても屈することなく,また麻衣(まい)をまとって余分の衣服をもたず,さながら高潔な禅僧のごとく無欲恬淡な生涯を送った。…
…中期以降,藩財政の悪化にともない彦根藩も1799年(寛政11)国産方を設置し,特産品の浜縮緬,浜蚊帳,浜天鵞絨(ビロード),高宮布等の保護育成と統制による専売制施行により,商業利潤の追求に乗り出した。一方ではこの時代,藩校の稽古館(のち弘道館,さらに文武館と改称)を開校し,直亮(なおあき),直弼(なおすけ)の代には蔵書数2万部30万巻を蔵したといわれる。1850年(嘉永3)襲封した直弼は,58年(安政5)大老に就任,幕閣に威を張り安政五ヵ国条約や将軍継嗣問題に端を発し,攘夷派を弾圧したため,60年(万延1)3月桜田門外の変で非業の最期をとげた。…
※「稽古館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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