出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…はじめは文献学的方法と古代社会の理想化とを特色とする学問潮流として始発したが,やがて古代に民族精神の源泉を求める思想体系の性格を帯び,幕末には日本の歴史的個体性を尊王論と結びつけることでいちじるしくイデオロギー化する。江戸時代には,漢学に対抗して古学・和学・皇朝学・本教学などと呼ばれた。〈国学〉とは本来,律令制度のもとで諸国に置かれた学校を意味する言葉であったが,上記の字義で用いられるようになったのは近世後期のことである。…
…現に真淵の説の誤りに対する宣長の批判は手きびしい。宣長は己の学問を〈古学〉と呼び,〈すべて後世の説にかかはらず,何事も,古書によりて,その本を考へ,上代の事を,つまびらかに明らむる学問也〉(《初山踏(ういやまぶみ)》)と定義する。それは神々の代への強い信に支えられていた。…
…この,当時通行の隷書(れいしよ)つまり今文で書写されたテキストを用いた博士官とは別に,古文すなわち戦国期の篆書(てんしよ)や籀文(ちゆうぶん)などのテキストを使用する学術も,前漢末に起こった。いわゆる〈古学〉であって,〈経伝〉の訓詁解釈にすぐれ,各経書の今古文にわたる比較研究を促し,漢・魏期の〈注〉釈(故訓,校注)を残している。後漢末の鄭玄(じようげん)にいたってその総合解釈の段階に達し,当面する治政の術芸をこえて,永遠の政教理念の学術へとむかった。…
…中国を聖人君子の理想国として畏敬する風潮は儒学者のみならず一般の日本人の間にも行き渡った。しかし一方,宋代,明代における経書の恣意的解釈に批判を加えた伊藤仁斎,荻生徂徠らの古学が勃興したのは元禄・享保期(1688‐1736)であり,これは清朝の乾隆・嘉慶期(1736‐1820)の考証学に先だつものであった。彼らが文化的理想としたのは現実の清朝ではなく古代中国社会であった。…
※「古学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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