わが国の文学、歴史、法制、有職故実(ゆうそくこじつ)などについての学問。漢学・洋学の対。「倭学」とも書く。
[石田一良]
奈良・平安時代に学問といえば中国の学問を意味したが、鎌倉時代に入ると、「本朝異朝」を語り「三国の風儀」を尋ね、「倭漢の学を兼ねる」ことが称賛された。同時に末法思想の深化によって時処機相応の論理が徹底して、震旦(しんたん)には漢字による中国学、天竺(てんじく)には梵字(ぼんじ)によるインド学、日本には日本語による日本学(和学)あるべしと考え、日本の有職故実、和歌、古典の研究が、後鳥羽(ごとば)上皇・順徳(じゅんとく)天皇をはじめとする宮廷貴族の間におこった。室町時代に入ると、和学は一条兼良(かねら)、三条西実隆(さねたか)などの堂上貴族や地下(じげ)の人々の間に盛んとなり、江戸時代には一般国民に普及して、賀茂真淵(かもまぶち)あたりから「国学」を分流させた。本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(あつたね)らは「国学」の流れを神道(しんとう)に結び付け、「和学」の流れを受けた塙保己一(はなわほきいち)は幕府に申請して和学講談所を設立し、門人屋代弘賢(やしろひろかた)らと正続『群書類従(るいじゅう)』等を編集した。こうして幕府は和学講談所と昌平坂(しょうへいざか)学問所と蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を鼎立(ていりつ)させて、和・漢・洋の学問をつちかったのである。
[石田一良]
日本の学問という点では和学も国学も同義であるが、江戸時代におこった狭義の「国学」と比較すると多少意味合いに相違がある。すなわち、同じ日本を対象とするといっても「国学」は古代の日本文化、とくに歌、物語や神道(しんとう)に偏し、他国にない皇統、純粋な心を賞揚し、また科学的な文献学的方法を特徴としながらもしだいに内面的、思想的研究に傾いていった。そのため、一つの理念に貫かれた思索的学風を美点としたが、他面、排他的、主観的性格をもつに至った。そして本居宣長、平田篤胤らの「国学者」たちは自らの学を「古学」とよび、「和学」の語を避けた。それは、和国で「和学」の名を用いるのは、漢学を主とし、わが国の学を傍とする態度であると考えたからである。それに対して江戸幕府の儒官林家(りんけ)では「和学科」を設けていた。一般的にいえば「和学」とは、狭義の「国学」に比し、時代、分野ともより広く、より考証的、客観的にわが国のことを扱う学問の総称で、漢学と区別するため生まれたものと考えられる。
[和田三三生]
『温故学会編『塙保己一研究』(1981・ぺりかん社)』▽『安藤菊二著『日本書誌学大系39 江戸の和学者』(1984・青裳堂書店)』▽『大阪国文談話会編『大阪の和学』(1986・和泉書院)』▽『国学院大学日本文化研究所編『和学者総覧』(1990・汲古書院)』▽『鈴木淳著『江戸和学論考』(1997・ひつじ書房)』▽『斎藤政雄著『「和学講談所御用留」の研究』(1998・国書刊行会)』▽『渡部綱次郎著『近世秋田の学問と文化 和学編』(1999・秋田文化出版)』▽『朝倉治彦監修『和学講談所蔵書目録』全7巻(2000・ゆまに書房)』
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神道・歴史・法制・文学・有職(ゆうそく)など,日本の学問領域を幅広く対象とする学問。漢学に対する語。国学と同義に用いられるが,近世の公的呼称としては和学が一般的。本来は漢学中心の学問体系の1科でもあったため,近世前半は林羅山(らざん)・貝原益軒・新井白石など主として漢学家によって担われたが,元禄期以降,契沖(けいちゅう)・荷田春満(かだのあずままろ)・壺井義知(よしちか)・吉見幸和など和学を専門とする人材が輩出した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…はじめは文献学的方法と古代社会の理想化とを特色とする学問潮流として始発したが,やがて古代に民族精神の源泉を求める思想体系の性格を帯び,幕末には日本の歴史的個体性を尊王論と結びつけることでいちじるしくイデオロギー化する。江戸時代には,漢学に対抗して古学・和学・皇朝学・本教学などと呼ばれた。〈国学〉とは本来,律令制度のもとで諸国に置かれた学校を意味する言葉であったが,上記の字義で用いられるようになったのは近世後期のことである。…
※「和学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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