日本歴史地名大系 「突抜二丁目」の解説
突抜二丁目
つきぬけにちようめ
南北を通る一貫町通を挟む両側町。町の北側は花屋町通(旧左女牛小路)に面し、南寄りを正面通(旧七条坊門小路)が通る。
平安京の条坊では左京七条一坊四保一五町・一六町の地。
天正一九年(一五九一)、本願寺(のち西本願寺)が六条堀川に豊臣秀吉から寺地を受けて移転して以後、その寺内町として開発された。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に現在と同じ「突抜弐丁目」とみえ、以後、中井家系の筆描絵図ではほぼ変化はない。一方、寛永一八年以前平安城町並図には「新町」、宝暦四年(一七五四)再版名所手引京図鑑綱目には「アタラシ町」と異称がみえる。宝暦一二年刊「京町鑑」では、位置の表示を「同(御寺内突抜一丁目)南町」とし、「(丹波海道)二町目」と記している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報