南町(読み)みなみまち

日本歴史地名大系 「南町」の解説

南町
みなみまち

[現在地名]仙台市一番町いちばんちよう一―三丁目・大町おおまち一丁目

大町の南、通町とおりまち(奥州街道)の両側町で、町並の長さは三町(奥陽名数)、「正説群記」所収の年未詳南町書上写では三町九間とある。伊達だて(現福島県)、米沢、岩出山いわでやま(現玉造郡岩出山町)以来の伊達御供の譜代町六町の一であり、町方二四町の三番目に列する(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)。仙台開府時には大町・さかな町に次いで割出され(年未詳南町願状写「仙台市史」所収)、大町・南町を基準線として城下町の屋敷割がなされたという。町名は米沢城下での位置にちなむとされる。

町の規模は元禄八年(一六九五)の軒数五九・検断二・肝入一(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)の宅地八一、男五五九・女三七六(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では軒数七六半、家数一九〇のうち蔵六〇、弘化二年(一八四五)の軒数八三(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭九七人、人数八一〇(切支丹宗門改人数)。街路幅は三間三尺で、大町の五間、国分こくぶん町の三間四尺と比べ狭いが、一軒当りの人口は寛政頃で一一・二人、大町一一・四人、国分町一〇人と、その賑いぶりがわかる(仙台市史)。延宝三年(一六七五)の連署申渡状写(「仙台市史」所収)では、大町一・二・三・四丁目、国分町とともに「上場所」と記される。しかし一様に上場所ではなかったらしく、芭蕉の辻に近い中心部のみの繁栄が知られ、その賑いの偏りを金頭かながしら町と俗称したという。検断は昆野家、肝入は清水家。昆野家は伊達以来の御供で、両家とも米沢以来南町の検断・肝入を務め、昆野家は組抜(平士格)並にあげられた(年未詳昆野十兵衛書上写「正説群記」所収、宝暦七年惣町肝入願状写「仙台市史」所収など)


南町
みなみまち

[現在地名]延岡市南町・中央通ちゆうおうどおり

延岡城東の大手おおて(京口)門の堀を渡った南手を起点に東に延びる東西道に沿う両側町と、北のなか町とを結ぶ南北道沿いのよこ町からなる。延岡城下七町の一。高橋元種が慶長八年(一六〇三)延岡城(県城)を築いた際にきた町・中町とともに形成された(延陵世鑑)。有馬家中延岡城下屋敷付絵図(明治大学刑事博物館蔵)では、北は中町、南は本丸南側のよろず蔵際から東流し大瀬おおせ川に注ぐ中堀、西は京口きようぐち門東側の中堀沿いのいま町、東は五ヶ瀬川に架かる板田いただ(百間橋)から南下する道に接する。今町と接する北角に客屋、中堀の交流点の北東側に妙専みようせん寺・専念せんねん寺、横町西側に本誓ほんせい寺、北東端に光勝こうしよう寺があり、光勝寺北側は入江であった。町の長さ東西一三一間・道幅三間、横町の長さ南北六六間半・道幅一間。当町から堀の南方の柳沢やなざわ町までの道は長さ四〇間・道幅二間半、板田橋から当町南端までの道は長さ一〇一間・道幅六間(正徳三年「御城并町在所々覚書」内藤家文書)。延享四年(一七四七)頃の延岡町中竈数人高等寄帳(同文書)によれば軒数一三七(本竈・店借とも)・人数五八五(うち下男六一・下女三三)、寺五(本誓寺・専念寺・妙専寺・光勝寺・地福寺)、医師五・座頭一・酒屋一〇。同年の城下町酒屋帳(同文書)によれば造酒石高八二石余の播磨屋惣四郎以下鈴木長右衛門・宇田津善六・大和屋新十郎(二株)・井筒屋久右衛門(三株)・和泉屋喜市郎(二株)・薩摩屋又兵衛の酒屋がいた。


南町
みなみちよう

[現在地名]金沢市香林坊こうりんぼう一―二丁目・尾山町おやままち高岡町たかおかまち

石浦いしうら町の北に続く北陸街道の両側町で本町。東は御門前松原ごもんぜんまつばら町。町の中ほどから同町へ通じる小路を乗物屋のりものや小路、中ほどの横小路を三井みつい小路と称した(橋本金沢市史)。永禄一〇年(一五六七)一一月五日のひろおかや与三寄進状(本願寺文書)によれば、近郊弘岡ひろおか出身で、当町に移住して町衆になったと推定される弘岡屋与三は「安江番」のうちに所持していた麹室座一間を「金沢殿」(金沢御堂)に売券一通を添えて寄進している。天文一五年(一五四六)創建された金沢御堂に形成された寺内町の一。町名は御堂の南側にあったことにちなむといわれる(「三州志来因概覧付録」など)。寛永一二年(一六三五)五月の大火を契機に町々が内総構の外へ移され町割が行われたが、当町もこのとき羅災し移転したといわれる(「政隣記」加越能文庫)


南町
みなみまち

[現在地名]高梁市南町

寛文一〇年(一六七〇)、藩主水谷勝宗により備前往来沿いのしも町の南側に取立てられてできた町人町で、城下六町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。北は牢屋ろうや小路を隔てて下町、東は横丁三通りによってひがし町・原西はらにし(松山西村)、西は横丁四通りによってしん丁へ続く。南端には間口三間・奥行二間の町口番所(ムクゲ垣番所)と木戸が設けられ、定番がいて城下への人馬の出入りを取締っていた。この番所を通って南進する備前往来はムクゲ土手とよばれていたが、これは松山川(現高梁川)の土手が往来に当てられ、道の両側にムクゲが植えられていたためである。このムクゲ土手の南端には総門と番所が置かれていたが、通常は開放されたままで、門番はおらず、非常時にだけ門を閉めていた(昔夢一斑・備中松山城及其城下)

延享元年(一七四四)の宗門改では人数九〇五、うち男四七五・女四三〇。


南町
みなみまち

[現在地名]会津若松市南町・南花畑みなみはなばたけ表町おもてまち錦町にしきまち

郭外の南にあったのでこの名があり、数条の通りがある。文禄元年(一五九二)蒲生氏郷が町割をしたときにつくられたともいわれる。蘆名氏時代の大永七年(一五二七)一二月九日に黒川南くろかわみなみ町が焼けたとある(異本塔寺長帳)。藩政時代には南町は次の一四町の総称になった。なか町は南町口郭門を出て大橋に至る長さ一町一四間・幅四間、家数三三。中町の中ほどより西に折れて花畑大通に通じるのが花畑通で、長さ五九間・幅二間余、家数九。この通りの南側に浄土宗長楽寺があったが廃寺になった。その跡には社会福祉法人南町保育園があり、その南西に墓地が残る。


南町
みなみまち

[現在地名]四日市市もと町・西新地にししんち諏訪栄すわさかえ町・中部ちゆうぶ

町の中央を南北に東海道が通り、その両側に広がる。北は四辻を隔ててきた町、南は浜田はまだ村、西は西にし町・比丘尼びくに町、東は上新かみじん町。旧版「四日市市史」によれば、古く南市場と称したが、寛文三年(一六六三)以降南町となった。北町とともに四日市宿の中心で、問屋場・本陣・旅籠が集中、旅籠はたご町ともよばれた。寛永一三年(一六三六)の五町米盛(旧版「四日市市史」)では面積九町余、伝馬二七疋を負担。天保一四年(一八四三)頃の東海道宿村大概帳(逓信博物館蔵)によれば、四日市宿の本陣は北町と南町に一つずつある。


南町
みなみまち

[現在地名]川越市幸町さいわいちよう

札の辻ふだのつじから南に延びる南北道の両側の町人町。川越一〇ヵ町のうち上五ヵ町の一。札の辻の南側にあるので南町と称された。北は喜多きた町、南は鍛冶かじ町に続き、東裏は江戸えど町・同心どうしん町、西裏は養寿ようじゆ院・行伝ぎようでん寺・長喜ちようき院などの寺地。一七世紀後半頃の川越城図に南町とみえる。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では町の長さ一六八間、家数五一・店数四九、男二七〇・女一九五。宝永二年(一七〇五)の川越惣町中御伝馬小役御国役帳では、東側二二名、西側二二名(うち寺屋敷二)で、伝馬小役三七軒分・小役四軒分を負担した。古くには六斎の灰市が立ち、灰市場とよばれ、二軒の灰商人がいたという(風土記稿・川越索麪)


南町
みなみちよう

東山区下河原町通高台寺下ル

下河原町しもかわらまち通に位置。東は下河原町(もと高台寺門前町)、南は金園きんえん(旧称八坂下町)、西は下弁天しもべんてん町、北は上弁天町。古くは「祇園南ぎおんみなみ町」という。「祇園町南側」と紛らわしいが、全く所在地が異なる。「京都府地誌」に「祇園社ノ南ニ方ルヲ以テ、謂ス」とある。

「坊目誌」は慶長一〇年(一六〇五)の開町とするが典拠不明である。ただし寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に、既に祇園南町の名が挙がっているから、江戸初期よりの町とみてよい。


南町
みなみまち

[現在地名]三田市三田町

ほん町の南裏通りの両側に町屋が並ぶ町人町。本町と同時期に成立。うら町とも(宝永頃の「三田絵図」勝本家蔵ほか)。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)に南町とみえ、本町札の辻ふだのつじからのほかに三筋の南北道によって本町につながる。東は三田藩牢屋敷に接し、西はさむらい町への木戸門に続く。東端にえびす神社があるので戎町とも称した。当町南裏には浄土宗正覚しようかく寺と塔頭の超勝ちようしよう院、日蓮宗妙三みようさん(明山寺)があり、正覚寺の南に足軽あしがる町がある。寛政五年(一七九三)の三田古地図(九鬼家蔵)では住屋矢七・医師吉田須伯の名がみえる。


南町
みなみまち

[現在地名]米沢市本町ほんちよう一―二丁目・城南じようなん二丁目・同四丁目

ひがし町の南西、三の丸堀の南に接する町人町。伊達氏時代に成立した六町の一。城下の再編により慶長一四年(一六〇九)頃までに現在地に移転したと推定されている。会津街道は当町で東に折れ、東町に至るため、当町通路は往来者が多く諸種の商人で賑った。慶長年間の初めまで大学だいがく(大覚町とも)と唱えていた。


南町
みなみまち

[現在地名]鶴岡市本町ほんちよう二丁目・睦町むつみまち三和町みわまち

一日市ひといち町南端の丁字路から東へ延びる道沿いにある。東は十三軒じゆうさんげん町に続く。明暦二年(一六五六)以前に六十里越の出口として町割されたとみられる。同年の自身番之覚(大泉紀年)に南町肝煎および自身番が記されている。延宝六年(一六七八)の城下絵図に南町六二間とある。天和三年(一六八三)の町割は一町、家数四六、男一六六・女一三四(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)。元禄七年(一六九四)の人別改帳(川上記)では本屋数三四、男一二二・女九一、名子家数二八、男八一・女七二(宿借・店借とも)。延宝四年の総軒数一九、町入用を負担する役下屋敷一五、天明二年(一七八二)の役下屋敷一三軒半(「御町御水帳」宇治文書)


南町
みなみまち

[現在地名]水戸市南町一―三丁目・いずみ町一丁目

なか町の南に東西に通じ、東は黒羽くろばね町の北端、西は泉町で、南三の丸みなみさんのまるより泉町への通路にあたる町。泉町との境にある郭門は初めあら町出口、元禄三年(一六九〇)の令で荒町見付と改称、のち泉町見付となった(新編常陸国誌)。古くは商家と寺院が混在していたが、慶長六年(一六〇一)真言宗の円雲えんうん院・福寿ふくじゆ院・若宮わかみや坊が泉町に移転、のち寛永年間(一六二四―四四)東覚とうかく院と真言宗長福ちようふく院が移転、商家も(下町)へ移り、諸士の居住地区となった。



みなみつじちよう

上京区千本通元誓願寺上ル

町の中央を南北に千本せんぼん通が通り、北側は今出川いまでがわ通。

中世には地蔵院があり、「斎藤親基日記」文正元年(一四六六)一二月二五日条に「同日。畠山右衛門佐義就帰洛。千本地蔵院宿所」とある。地蔵院については「坊目誌」は、上品じようぼん蓮台寺(現北区)の末寺で応仁の乱に焼亡し、乱後同寺の一坊になったと記す。

「坊目誌」所収の徳遊寺文書元和八年(一六二二)一二月二五日付「永代売渡申屋敷之事」に「南辻町」とみえる。また承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図、宝永六年(一七〇九)京大絵図、宝暦四年(一七五四)京都絵図には「下五辻町」、貞享三年(一六八六)京大絵図や元禄九年(一六九六)京大絵図には「下五辻天どう町」とある。


南町
みなみまち

「挙母記」に「三宅侯の頃ハ大手門の前より東へ川のわくまて大手筋と云て諸人往来多き地也」「延宝頃まては南町を大手町とも云へり」とある。延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図によると、北はほん町に接し、南は採養院さいよういん川に架かる石橋を限り、南西の大浜おおはま道に続く出口には木戸がある。西北は鳥山御屋敷に接し、東端には八幡宮があり、社殿前の道は幅二間で岡崎道への出口にあたり、木戸がある(七州城沿革小史)。当時の家数は五四で、全部萱屋造で座敷をもつ家はない。

「七州城沿革小史」によれば、寛延二年(一七四九)内藤氏の入部時には、家数一〇九、高八四七石七斗余。この家数の増加は、南端の南町(もと大手町)の位置から考えて、挙母町の広がりを示している。


南町
みなみまち

[現在地名]姫路市南町・西駅前町にしえきまえちよう忍町しのぶまち

姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。加納かのう町の南で飾万しかま門の内側にある。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図に「新町」、元禄八年(一六九五)写の姫路城図に「餝万口門内新町」とある。姫路町書上帳、元文五年(一七四〇)の姫路町飾万津町地子銀控に「南町」の名が初めてみえ、家数一〇・地子銀八八匁余。寛延四年(一七五一)頃の南町絵図には南北の通りの東側に五筆、西側はほとんどが土手で北部に北向きの小さな五筆の屋敷があり、その西端に木戸、東側南に光徳こうとく寺がある。


南町
みなみちよう

[現在地名]高崎市南町

新喜あらき町の北に延びる中山道の両側町で、遠堀外にある。町の長さ二町八間半、米年貢地、名主山中伝六・白田彦七(高崎寿奈子)。「高崎志」に「領主安藤氏ノ命ニヨリテ、慶安三年庚寅始テ家作シテ町トナル、城下南ノ端ナル故ニ南町ト名ヅケラルト云伝タリ」とある。こののち家数も増し、元禄一六年(一七〇三)往還絵図によると腰掛茶屋が一三軒もあり、その多くは酒屋・刻たばこ・菓子・蕎麦屋などの兼業。そのほか付木屋・茶店・紺屋各三、刻たばこ・飴屋・豆腐屋・大工各二、魚屋・八百屋・油屋・太物商・小間物草鞋屋も各一あり、山伏が一軒あるほかは作人二八軒で、名主は新右衛門。


南町
みなみまち

[現在地名]柳川市沖端町おきのはたまち

柳川城下南西、沖端川から東に引込まれた堀の南側に面する東西の通りを中心とした町。南裏は矢留やどみ村。年不詳の柳川城下絵図・沖端南部(九州大学附属図書館六本松分館蔵檜垣文庫)に南町とあり、通りの南側に家並が描かれ、片側町であった。また同絵図に張られている付箋から、土地・住民とも町方支配を受けていたことがわかる。寛政二年(一七九〇)の沖端町絵図には「西南町」と記され、南に入る通りには「横丁」と記されている。



みなみさやちよう

[現在地名]中央区京橋一―二丁目

大鋸おが町・正木まさき町の南にあり、南は南塗師みなみぬし町、東は本材木ほんざいもく町五丁目、西は南伝馬みなみでんま町一丁目。国役町。町名は刀剣の鞘を作る職人が集住していたことに由来する(京橋繁昌記)。寛永江戸図には「さや丁」「二丁メ」とある。日本橋北岸の北鞘町に対して南鞘町と称した(寛文新板江戸絵図など)。安永三年小間附町鑑によれば小間は京間一七三間、国役として塗師方細工人手間料一五〇人分を毎年奈良土佐方へ勤める。


南町
みなみちよう

[現在地名]滑川市加島町かしまちよう

北陸街道の南に位置し、東は河端かわばた町、南は領家りようけ村、北は西にし町。江戸期に加賀藩の御蔵および給人蔵が設置され、西の御蔵所・西の御蔵町と称された。明治八年(一八七五)に御蔵などが取壊され、跡地に数軒の人家が建てられ、同一三年に南町と名付けられたという。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)には、河端町の本広ほんこう寺西側の通りを挟んで六棟の御蔵と御蔵番庄次郎らの名がみえ、その南西に「御給人宗左衛門蔵」など二棟の給人蔵が描かれている。


南町
みなみちよう

上京区東三本木通丸太町上ル

かも川の西側に位置。町の西を南北に東三本木ひがしさんぼんぎ通が通る。

元禄四年(一六九一)京大絵図によれば、この地域は「あきやしき」「三人衆」と記されるだけで町名はない。宝永五年(一七〇八)の大火後京都御所拡張の時、三本木町一丁目から三丁目まで(現京都御苑内)の人家を現在の地に移して開町(町の様子は→三本木。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「下之町」とあり、文政三年(一八二〇)の上京軒役付帳に「南之町」と記される。


南町
みなみまち

[現在地名]七戸町 七戸

通称南浦なんぽの一部。七戸村の町方で、南北に通る奥州街道沿いの西側に延びる。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると北はうら町、南は新川原しんかわら町、東はした町に接する。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に家数二一とあり、享和三年(一八〇三)仮名付帳では三一、うち給人七。


南町
みなみまち

[現在地名]伊丹市伊丹三―五丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。竹屋たけや町の南東でほん町筋が直角に曲がる辺りに位置し、大坂道を挟んだ両側町。文禄伊丹之図に町名がみえる。会所入用割の間数は二一三間半(「正心調法記」武田家文書)。天明六年(一七八六)には地売酒造人の荒物屋善兵衛が居住していた(「酒造家名前覚」小西家文書)


南町
みなみまち

下京区木津屋橋通油小路東入

東西に通る木津屋橋通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京八条二坊四保一六町南側及び同一五町北側。平安中期以降は塩小路西洞院大路の西南の地。

寛永以後万治以前京都全図に「油小路東町」、寛文後期洛中洛外之絵図に「南丁」、寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図に「塩小路通南丁」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「南町」とある。


南町
みなみまち

昭和二七年(一九五二)に設定された。北西は南仲みなみなか町、南西は中ノ島なかのしま町、北東は清月せいげつ町。南東を常呂ところ川が北東へ流れる。


南町
みなみまち

[現在地名]大畑町大畑 南町

大畑町の南西に位置し、北東はほん町と接する。文禄―慶長(一五九二―一六一五)の頃本町とともに開けた大畑町の最初の町とされる(大畑町誌)。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に南町とあり、家数は五〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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