日本歴史地名大系 「南町」の解説
南町
みなみまち
大町の南、
町の規模は元禄八年(一六九五)の軒数五九・検断二・肝入一(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)の宅地八一、男五五九・女三七六(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では軒数七六半、家数一九〇のうち蔵六〇、弘化二年(一八四五)の軒数八三(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭九七人、人数八一〇(切支丹宗門改人数)。街路幅は三間三尺で、大町の五間、
南町
みなみまち
延岡城東の
南町
みなみちよう
南町
みなみまち
寛文一〇年(一六七〇)、藩主水谷勝宗により備前往来沿いの
延享元年(一七四四)の宗門改では人数九〇五、うち男四七五・女四三〇。
南町
みなみまち
南町
みなみまち
南町
みなみまち
南町
みなみちよう
南町
みなみまち
南町
みなみまち
南町
みなみまち
南町
みなみまち
南町
みなみつじちよう
町の中央を南北に
中世には地蔵院があり、「斎藤親基日記」文正元年(一四六六)一二月二五日条に「同日。畠山右衛門佐義就帰洛。千本地蔵院宿所」とある。地蔵院については「坊目誌」は、
「坊目誌」所収の徳遊寺文書元和八年(一六二二)一二月二五日付「永代売渡申屋敷之事」に「南辻町」とみえる。また承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図、宝永六年(一七〇九)京大絵図、宝暦四年(一七五四)京都絵図には「下五辻町」、貞享三年(一六八六)京大絵図や元禄九年(一六九六)京大絵図には「下五辻天どう町」とある。
南町
みなみまち
「挙母記」に「三宅侯の頃ハ大手門の前より東へ川の
「七州城沿革小史」によれば、寛延二年(一七四九)内藤氏の入部時には、家数一〇九、高八四七石七斗余。この家数の増加は、南端の南町(もと大手町)の位置から考えて、挙母町の広がりを示している。
南町
みなみまち
南町
みなみちよう
南町
みなみまち
南町
みなみさやちよう
南町
みなみちよう
南町
みなみちよう
南町
みなみまち
南町
みなみまち
南町
みなみまち
南町
みなみまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報