日本歴史地名大系 「立部村」の解説 立部村たつべむら 大阪府:松原市立部村[現在地名]松原市立部一―五丁目・西大塚(にしおおつか)二丁目・柴垣(しばがき)二丁目・岡(おか)三―四丁目松原村の東にあり、羽曳野(はびきの)丘陵西縁にあるため南東が高く、北西へ緩やかに傾斜する。立部は「たちべ」すなわち「多治部」であろうといわれている。南部を東西に竹内(たけのうち)街道が通る。古代丹比(たじひ)郡土師(はにし)郷(和名抄)に松原村とともに含まれたという説がある。伝説に、この地で土器を焼き反正天皇に献上したので、この地を土師村とよんだという。当地には土師姓が多い(大阪府全志)。「河内志」に「土、立部村造、有小重油盞、三度五度等品」とある。宝永二年(一七〇五)の村明細帳(土師家文書)に「当村ニ而かはらけ仕候百姓も御座候」とある。 立部村たちべむら 奈良県:高市郡明日香村立部村[現在地名]明日香村大字立部橘(たちばな)村の西方にあり、「和州旧跡幽考」には「立部(たつべ)村」と記す。タチベは反正天皇の御名代部丹比部(たじひべ)のことか。文禄検地村高は一六三・〇五石。検地奉行は石田正澄。慶長・元和両郷帳には「上林きかへ村」、寛永郷帳には「常林寺立部村」とみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by