日本歴史地名大系 「松原村」の解説
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
- 長崎県:大村市
- 松原村
一五七四年(天正二年)頃、大村領内でキリスト教の浸透が著しい時期イエズス会のコエリヨ神父がマツバラで説教を行ったところ、仏僧らは使者を遣わして、大村殿の意志に従って望む者はキリシタンになるのはかまわないが、仏像に手を出したり、寺院を煩わすことがないようにというので、司祭はそのために教えを説くのではないと答えたという。
松原村
まつばらむら
北は播磨灘に面し、西の
寛永国絵図では白鳥郷のうち(→白鳥村)。寛永一七年の生駒領高覚帳では高七一石余、天保郷帳の高二九一石余に比べてあまりにも少ないが、高覚帳の白鳥郷(のちの白鳥村)の高は天保郷帳の白鳥村の高に比べて二三四石余も多いので、松原村の高が白鳥郷に一部含まれていると思われる。
松原村
まつばらむら
寛延三年(一七五〇)の宇佐崎組村々明細帳(県立歴史博物館蔵)によれば高七一〇石余、うち松原八幡宮領四一石余などを引いた残高六六九石余の反別は田方三一町六反余・畑方一〇町二反余、ほかに新高一九石余があった。
松原村
まつばらむら
- 大阪府:松原市
- 松原村
現松原市中央部の南にあり、緩やかな南高北低のおおむね平坦な地形。北を長尾街道が東西に通り、それを境に
松原村
まつばらむら
正保郷帳に村名がみえ、横須賀藩領。田方一千一一八石余・畑方一一一石余、法音庵領一石五斗・見徳寺領一石五斗。領主の変遷は
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
- 京都市:北区
- 松原村
東は
松原の地名は「管見記」嘉吉二年(一四四二)三月五日条に「騎馬肖遥松原辺、種衡朝臣已下在共」、同三年正月二六日条に「松原天神法楽猿楽」とみえる。また「山城名勝志」所収「拾芥抄」に「香隆寺今曰松原」とある。応仁の乱以前の京都の姿を描いたとされる中昔京師地図にも、北野社の近辺に松原が描かれる。
享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳による村高は、一一二石八斗四升余で、内訳は幕府直轄領六石六斗九升余、実相院宮領六〇石八斗九升余、
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
- 群馬県:館林市
- 松原村
松原村
まつばらむら
彦根城下の北、琵琶湖と松原内湖に挟まれた砂洲上に立地。北は
当地から磯山にかけての湖岸を「千の松原」「
松原村
まつばらむら
北八ヶ岳天狗岳(二六四五・八メートル)の裾が台地状となって、急角度に千曲川の谷に落ち込む台地の末端付近に、火山泥流の堆積によって出現した起伏の多い湖盆地形は、松原湖群とよばれるいくつかの湖沼を形成している。その湖沼群中最大の
佐久甲州往還は村の東方千曲川の狭い谷底を通っていたが、洪水の際は不通となるので、八那池―松原―海尻と丘陵上の道が使用された。
松原村
まつばらむら
- 愛知県:知多市
- 松原村
北を
慶長年間(一五九六―一六一五)には浜年貢として塩を上納している(地方古義)。
松原村
まつばらむら
- 東京都:世田谷区
- 松原村
松原村
まつがはらむら
- 広島県:大竹市
- 松原村
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まちやらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
- 熊本県:宇土市
- 松原村
東は
松原村
まつわらむら
松原村
まつばらむら
- 兵庫県:龍野市
- 松原村
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
- 福岡県:行橋市
- 松原村
松原村
まつばらむら
- 島根県:益田市
- 松原村
高津川の支流白上川下流地域に位置し、東は
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
- 兵庫県:龍野市
- 松原村
田中村の南東に位置し、
松原村
まつばらむら
- 大分県:臼杵市
- 松原村
松原村
まつばらむら
松原村
まつばらむら
- 三重県:名張市
- 松原村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報