松原村(読み)まつばらむら

日本歴史地名大系 「松原村」の解説

松原村
まつばらむら

[現在地名]平良市松原まつばら

下里すんだてい村の南西に位置し、西は与那覇ゆなぱ湾に臨む。はじめ平良ぴいさら間切、のち砂川うるか間切に属する。首里大屋子が管轄する村。北の久貝ふが村とともにかつては野崎ぬざきい村で、後代に至るまで野崎二ヵ村などと称された(雍正旧記)。野崎村長井の里(ナカイザトゥ)に生れた真氏は、西銘にすみ地域の支配者となった炭焼太郎(西銘嘉播親)と結ばれ、裕福になったという(宮古島記事仕次)。集落内に一四世紀後半の遺跡を伴うミャーカ(石塚)があり、一四世紀頃に与那覇原軍に滅ぼされたと伝える久知名按司の配下の集落跡と考えられる。集落南部には土器や輸入陶磁器が出土するミヌガフツ遺跡があり、同じく滅ぼされた美野島みぬすま跡と考えられる。当地に唐人の七人兄弟が渡来し、長男は松原の大泊うぷどうまーりや御嶽、次男は久貝村のすきら按司御嶽、三男は下地すむず間切与那覇ゆなぱ(現下地町)の石城(前山)御嶽、四男は与那覇村の池之いきぬ御嶽、五男は下地間切来間ふふやま(現同上)西にぬ御嶽(西新崎御嶽)、六男は松原(御嶽は不詳)、七男は久貝村(元学校跡)に祀られているという。プー(豊年祭)・リューグーガン(竜宮御願)・ユークー(世乞い)などの祭祀が大泊御嶽・大座うぷざー御嶽・アガざー御嶽・川嶺かーんみ御嶽・カーニ御嶽などが久貝村と共同で行われる(カーニ御嶽は松原村が中心)。一六世紀前半、野崎村のマサリャは新里あらだてい(現上野村)の「お舟の親」の部下として琉球に上ったが、帰帆の途中「あふら」島に漂着、他の乗組員は殺されたが、美男のマサリャは現地の女と睦まじくなり、女の手引で脱走に成功、追っ手が迫ってきたが、もらい受けた「かかう竿」という櫂の威力で逃延びた。


松原村
まつばらむら

[現在地名]大村市松原・松原本町まつばらほんまち野岳町のだけまち東野岳町ひがしのだけまち

福重ふくしげ村の北にあり、北西部に海に突き出した鹿しか島がある。東に鉢巻はちまき山がある。いちノ郷の八幡神社は鎌倉期の創祀と伝える。建久元年(一一九〇)鎌倉幕府の御家人工藤祐経が日向国地頭職の補任に際して源頼朝から与えられた三三所の所領のうちに「肥前国松原郡内百町」があったという(日向記)。三ノ郷の熊野神社の一帯はこおり七山十坊の中心という延命えんめい寺があったとされ、天平一一年(七三九)行基の創建と伝え、建武元年(一三三四)銘の五輪塔があり、法阿と記される。大永二年(一五二二)銘の五輪塔もある。同じく郡七山の妙光みようこう寺跡にも石造物などが残り、権現・六ケそう・藤間節などがある。文明六年(一四七四)九州刀工の波平行安(並衡行泰)の一流が松原に来住、八幡宮境内で刀鍛冶を始め、松原鍛冶と称されたという。元亀三年(一五七二)七月三〇日、大村純忠が西郷純尭および後藤貴明・有馬鎮純・松浦隆信の軍勢に居城の三城さんじよう城を攻撃された際、郡村の長岡左近・朝長壱岐らとともに松原の福岡大蔵らが援軍に参じたという(大村家覚書)

一五七四年(天正二年)頃、大村領内でキリスト教の浸透が著しい時期イエズス会のコエリヨ神父がマツバラで説教を行ったところ、仏僧らは使者を遣わして、大村殿の意志に従って望む者はキリシタンになるのはかまわないが、仏像に手を出したり、寺院を煩わすことがないようにというので、司祭はそのために教えを説くのではないと答えたという。


松原村
まつばらむら

[現在地名]白鳥町松原

北は播磨灘に面し、西のみなと川河口から東の鹿浦かぶら(蕪)越にかけては弓状の遠浅の海岸で、広大な松原が続く。三里さんりが浜とも白鳥松原ともよぶ。鹿浦越から北に突き出した岬の絶壁には白い花崗岩と黒のランプロファイヤ(煌斑石)が互層する岩脈が走り、あたかも白黒の幕を張ったような奇観を呈する(国指定天然記念物)。岬を回ると潮越しおごし浜が広がり、沖合に一子ひとご島・双子ふたご島が浮ぶ景勝地である。松原の東寄りになか川が注ぐ。「三代物語」に「三里松原、白鳥の浦、松原広く、南山険阻の巌山、北海は一つ島・二子島近く見ゆ、遠く望めば小豆島・家島・播磨潟までも眺望し、それ絶景の地なり」とある。東は与治よじ(一八六・六メートル)引田ひけた(現引田町)と境をなし、西は湊村と接する。与治山には戦国時代、寒川氏の出城があったと伝え(南海通記)、近世には高松藩主の狩猟の地であった。松平頼重は寛永一九年(一六四二)就封の年に早くも与治山で狩をしているが、寛文四年(一六六四)の大巻狩では勢子五千余人、獲物は鹿二〇〇頭余にのぼったという。

寛永国絵図では白鳥郷のうち(→白鳥村。寛永一七年の生駒領高覚帳では高七一石余、天保郷帳の高二九一石余に比べてあまりにも少ないが、高覚帳の白鳥郷(のちの白鳥村)の高は天保郷帳の白鳥村の高に比べて二三四石余も多いので、松原村の高が白鳥郷に一部含まれていると思われる。


松原村
まつばらむら

[現在地名]姫路市白浜町しらはまちよう白浜町神田しらはまちようかんだ一―二丁目・白浜町寺家しらはまちようじけ一―二丁目・白浜町灘浜しらはまちようなだはま

飾東しきとう郡に所属。西の妻鹿めが村との境にあるうみ山から東に細長く延びる砂堆上に発達した村で、東はなか村、北は北原きたはら村など。北部のつぼつぼろくつぼなどに条里の遺構が残っていたが、昭和四八年(一九七三)から始まった土地区画整理事業により消滅。中世は松原庄に含まれていた。慶長国絵図に「松原村」とみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方四四二石余・畠方六三石余、ほかに松原八幡社領六〇石がある。元禄郷帳では高五五一石余。天保郷帳では高七四〇石余。旧高旧領取調帳では高八一一石余、うち「松原山八幡社」領四一石余。

寛延三年(一七五〇)の宇佐崎組村々明細帳(県立歴史博物館蔵)によれば高七一〇石余、うち松原八幡宮領四一石余などを引いた残高六六九石余の反別は田方三一町六反余・畑方一〇町二反余、ほかに新高一九石余があった。


松原村
まつばらむら

[現在地名]松原市上田うえだ一―八丁目・新堂しんどう一―五丁目・おか一―七丁目・柴垣しばがき一―二丁目・西大塚にしおおつか一―二丁目など

現松原市中央部の南にあり、緩やかな南高北低のおおむね平坦な地形。北を長尾街道が東西に通り、それを境に西阿保にしあお村・東阿保村に接する。村の中央を南北に中高野街道が通り、南を竹内たけのうち街道が東西に走る交通の要衝。江戸時代の松原村は事実上、上田・新堂・岡の三ヵ村に分かれていた。文禄三年(一五九四)の検地帳(松永家文書)の表紙に「丹北郡松原郷内岡村御検地帳」とあり、検地は村切をして集落ごとに一帳をつくったが、その後の村切が完全に行われず、松原郷の大部分が松原村として幕末まで続いた。上田の溜池であったしもノ池(現在、北半分が埋められて市立松原小学校校地)の北に反正山はじやまという小字名がある。土師山とも記し、「河内鑑名所記」には「はじ山、櫨山也」とある。


松原村
まつばらむら

[現在地名]浅羽町松原

東山ひがしやま村の西側に位置する。天正一七年(一五八九)七月七日付で原田佐左衛門尉が奉者となって徳川家七ヵ条定書(原文書)が「遠州松原百姓等」宛に交付された。なお永禄三年(一五六〇)七月二〇日海老江菊千代に宛てられた今川氏真判物(海老江文書)によると、「大脇新々田之内仁相交本田野河共」の半分が海老江菊千代に与えられ、残り半分は小笠原方に渡すよう命じられている。「大脇」は当地あるいは太郎助たろすけ大脇おおわきにあたると考えられる。

正保郷帳に村名がみえ、横須賀藩領。田方一千一一八石余・畑方一一一石余、法音庵領一石五斗・見徳寺領一石五斗。領主の変遷は梅田うめだ村に同じ。「遠淡海地志」では家数一五〇。


松原村
まつばらむら

[現在地名]山形市松原・南松原みなみまつばら一―二丁目

津金沢つがねざわ村の南東に位置し、川西岸平地に立地。南西端の丘に続く丘陵は蔵王山噴火による泥流層に覆われているが、松原窯跡や小松原こまつばら久保手くぼて古窯跡群がある。また旧羽州街道の横手道沿いには縄文時代の花川はなかわ遺跡があり、天神てんじん山に祭祀遺跡がある。最上氏改易後は山形藩領、弘化二年(一八四五)上野館林藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一千二九〇石余。正保郷帳では田一千一九一石余・畑九八石余。明和元年(一七六四)の村明細帳(長井政太郎氏旧蔵文書)では高一千三〇七石余、うち新田二四五石余、反別田八一町六反余・畑六町九反余、家数一〇三・人数四三六、馬二八。


松原村
まつばらむら

[現在地名]岡垣町吉木よしき手野ての

黒山くろやま村の西、遠賀川河口から西に延びる海岸砂丘上に形成された松林、おか松原(三里松原)の中に位置する。北は海(響灘)に面し、汐入しおいり川は当地で海に注ぐ。村域は東西に広く、南から南西にかけて吉木村・三吉みよし村・手野村が囲んでいる。村名は岡松原に由来(地理全誌)。集落は汐入川右岸の本村(元松原。東松原ともいう)と左岸の新松原(西松原ともいう)の二ヵ所(続風土記拾遺)。慶安二年(一六四九)に元松原地区が吉木村から分村して一村となり、宝暦五年(一七五五)に手野村の北東部を割いて当村に加えたのが新松原で、同所は俗に入地ともよばれた。


松原村
まつばらむら

[現在地名]鳥取市松原

荒田あらた村の西、湖山こやま池南西岸にある。集落の中心は北へ流れる湯谷ゆたに(現吉岡川)のデルタ上の湖岸にある。拝領高は五〇三石余。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高五九二石余、本免五ツ四分、川役米二石一斗八升・役米二石二斗三升(一石二斗三升と一石の二筆)・山札銀七匁五分・藪運上銀三匁を課されていた。役米のうち一石は享保一一年(一七二六)一一月以降当村など池周辺七ヵ村へ割当てられたもの(在方諸事控)。「因幡志」は川役米三石一斗四升で役が含まれると考えて三石四斗一升の誤写と推定している。


松原村
まつばらむら

[現在地名]北区小松原こまつばら北町きたまち南町みなみまち

東は北野きたの平野ひらのの両村、西は等持院門前とうじいんもんぜん、南は北野村、北は小北山こきたやま村と接する。もと北山庄のうちという(山城名跡巡行志)。村域の東部は古代中世を通じ北野天満宮の境内地に含まれた。

松原の地名は「管見記」嘉吉二年(一四四二)三月五日条に「騎馬肖遥松原辺、種衡朝臣已下在共」、同三年正月二六日条に「松原天神法楽猿楽」とみえる。また「山城名勝志」所収「拾芥抄」に「香隆寺今曰松原」とある。応仁の乱以前の京都の姿を描いたとされる中昔京師地図にも、北野社の近辺に松原が描かれる。

享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳による村高は、一一二石八斗四升余で、内訳は幕府直轄領六石六斗九升余、実相院宮領六〇石八斗九升余、金地こんち院領二三石七斗三升余、川鰭家領六石五斗九升余、花園家領六石五斗九升余、小倉家領六石五斗九升余、花台院領一石七斗三升余。


松原村
まつばらむら

[現在地名]桑折町松原

成田なりた村の西に位置し、北部は南に延びる山地、南部は西根にしね台地が緩斜面をなす。寿永二年(一一八三)西行は当地を訪れて覚英僧都ゆかりの地を探しあて、松の幹に「世の中の人には葛の松原とよはるる名こそ嬉しかりけれ」という覚英の辞世の句と、保元二年(一一五七)に死去した旨が記されているのを見たという(撰集抄)。村名はこの「葛の松原」に由来するという(信達二郡村誌)。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録では、「いたて松はら」のうち金沢佐衛門分「たての在け」一軒が内馬場八郎衛門に、「西根松原」のうち「しんちやう院分はらの在家」が「てんあミ」に与えられている。天正四年(一五七六)三月、森越後守は伊達のうち「松原」七千刈の地などを宛行われている(同月一〇日「道祐宛行状」平泉東谷坊文書)


松原村
まつばらむら

[現在地名]伊東市松原・松原湯端町まつばらゆばたちよう猪戸ししど一―二丁目・中央町ちゆうおうちよう松川町まつかわちよう松原本町まつばらほんちよう東松原町ひがしまつばらちよう銀座元町ぎんざもとまち渚町なぎさちよう和田わだ一丁目・たけうち一―二丁目

北の湯川ゆかわ村から集落が続き、東は伊東湾に面し、海沿い近くを東浦ひがしうら路が通る。伊東大川(松川)河口の村で、左岸にある本村に対して右岸の集落を中島なかじま村とも俗称する。北条氏所領役帳によれば、北条家臣御馬廻衆勝部小三郎の所領として八〇貫文「豆州湯川松原」とある。また現中伊豆町徳永とくながの山神社の天正二年(一五七四)上梁銘に「湯河松原」とみえる(増訂豆州志稿)


松原村
まつばらむら

[現在地名]館林市松原一―二丁目・つつじちよう緑町みどりちよう二丁目

じよう沼の南岸にあり、東は羽附はねつく村、西は谷越やごえ村・新宿しんじゆく村、南は赤生田あこうだ村。北を鶴生田つるうだ川が流れ城沼に注ぐ。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえる。寛文郷帳では田方一三石一斗余・畑方一一九石九斗余、館林藩領。元禄郷帳では旗本稲生領。のち館林藩領に復した。安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」によると田二町三反余・畑二一町九反余、羽附村内に飛地があった。


松原村
まつばらむら

[現在地名]彦根市松原町・松原一―二丁目

彦根城下の北、琵琶湖と松原内湖に挟まれた砂洲上に立地。北はいそ(現坂田郡米原町)に続き、磯村側から一ッ川・二ッ川・三ッ川・四ッ川とよばれた水路が琵琶湖と内湖を結んでいた。村の南部は彦根城下建設に伴い縄張内に取込まれたと伝え、四ッ川一帯が舟入(松原湊)として機能、彦根藩の御蔵が設置され水主かこ町も形成されていた。

当地から磯山にかけての湖岸を「千の松原」「千々ちぢの松原」といい、平安後期には都に聞えた名所であった。「近江国注進風土記」に「千松原」があげられ、「梁塵秘抄」(巻二)に「瀬田の橋、千の松原竹生島」、大蔵卿為長の歌に「けふよりぞ千々の松原ちぎりおくはなは十かへり君はよろづよ」(続古今集)と詠まれている。


松原村
まつばらむら

[現在地名]小海町大字豊里とよさと

北八ヶ岳天狗岳(二六四五・八メートル)の裾が台地状となって、急角度に千曲川の谷に落ち込む台地の末端付近に、火山泥流の堆積によって出現した起伏の多い湖盆地形は、松原湖群とよばれるいくつかの湖沼を形成している。その湖沼群中最大の猪名いな(標高一一二三メートルに位置する)と第二のちよう(標高一一二六メートル)の間に集落が存在する。東は海尻うみじり(現南牧村)八那池やないけ村、西と南は大月川境稲子いなご村・稲子新田村、北は八那池村に接する。湿地や溶岩台地の入り組んだ起伏の多い複雑な地形の村である。村は湖畔に鎮座する松原神社とともに古くから存在したものと思われる。

佐久甲州往還は村の東方千曲川の狭い谷底を通っていたが、洪水の際は不通となるので、八那池―松原―海尻と丘陵上の道が使用された。


松原村
まつばらむら

[現在地名]知多市新舞子しんまいこ

北をもり村・鍛冶屋かじや村に接する。「寛文覚書」によれば、概高七三五石余、田三一町五反余・畑一七町四反七畝余、家数八四、人数四五三。弘化二年(一八四五)には家数一三四、明治元年(一八六八)には家数一一六であった(知多市誌)。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)による元和―寛永期(一六一五―四四)の給人は山内次大夫二四九石余、富永大学頭六九石余、渡辺源兵衛一九三石余、吉田勘兵衛五〇石、桜山三郎左衛門一三〇石余とある。

慶長年間(一五九六―一六一五)には浜年貢として塩を上納している(地方古義)


松原村
まつばらむら

[現在地名]世田谷区松原一―六丁目・赤堤あかつつみ一―四丁目・豪徳寺ごうとくじ一丁目・宮坂みやさか二丁目・梅丘うめがおか一―二丁目

代田だいた村の西にある。北を甲州道中がほぼ東西に通り、南は世田谷村。荏原えばら郡に属する。田のうち二町余が南を流れる上北沢かみきたざわ分水の水を引いていた。飛地は南の上北沢分水を越えた世田谷村内(字松原宿)および赤堤村の内にあった(「村絵図」新修世田谷区史)。初めは西に位置する赤堤村と一村をなしていたが、いつしか二村に分れたとされる(風土記稿)。田園簿に記載がなく、元禄八年(一六九五)の松原村十郎左衛門入札地請負証文(相原家文書)や、元禄一〇年の松原村検地帳(同文書)が残っていることから、慶安(一六四八―五二)から元禄初年頃に赤堤村の開発地が一村となったものと推定される。


松原村
まつがはらむら

[現在地名]大竹市まつはら

川の上流域に位置し、南東は大野おおの(現佐伯郡大野町)。四周をかさ山・経小屋きようごや山などの山々に囲まれ、盆地状の平地に集落が展開する。当地は「万枝が原」ともよばれたという(芸藩通志)。天正二〇年(一五九二)正月二四日付の安芸国佐西郡大野村内打渡坪付(野坂文書)には「松かはら田弐反小 米壱石三斗 彦右衛門、同所与三かいち田弐反小 米壱石壱斗 新六」などとみえ、当時は大野村に属し、毛利元就の子穂田元清によって大野村のうち当地など一〇石余の地が厳島神社領とされた。


松原村
まつばらむら

[現在地名]飯豊町松原

添川そえがわ村の南西、しら川右岸に位置し、越後街道がほぼ東西に走る。添川村の地内を須田善左衛門が切立、開発し成立した新田村で(享保八年「当国覚書」沼沢文書など)、正保郷帳に村名がみえ田高三〇二石余・畑高一一〇石余。上小松かみこまつ宿(現東置賜郡川西町)から西進する越後街道は諏訪すわ峠を越えて当村に入り、白川を渡河、宿に抜ける。上小松―手ノ子間は二里余だが、この間難路が多く荷物運送が遅滞しやすかったために、のちに問屋職についた勝見次郎右衛門の奔走により寛文六年(一六六六)宿駅の新設が認められた(飯豊町史)


松原村
まつばらむら

[現在地名]檮原町松原

中平なかひら村の南にあり、東北に角点かくてん(九五三メートル)、南に大畑おおはた(七八八・七メートル)を望む。「土佐州郡志」には「東限大野見、西限上山下津井界、南限上山、北限初瀬大野地、東西二里許南北半里許」とある。天正一六年(一五八八)の津野松原村地検帳によると、松原村は高野・保道・西・名本の四名からなり、地積一一町余、ヤシキ三七筆で、津野氏の重臣山内右衛門大夫の給地であった。

江戸時代には津野山つのやま郷九ヵ村の一で庄屋が置かれた。


松原村
まつばらむら

[現在地名]美浜町松原

みみ川河口の西側、郷市ごいち村の北に立地。北は若狭湾に面する。「三方郡誌」は当村はもと郷市村のうちであったと記す。東の海岸近くに奈良時代の製塩遺跡がある。大永五年(一五二五)の猿楽楽頭気山大夫が七七歳の時の譲状(「三方郡誌」所収)に「かくとうゆつる事」として「若州松原、一貫五百文也、此内三百文かくとうの内とく也、又のこり一貫に二百文内百二十文座中より外候、(下略)」とあり、当村に猿楽気山座の楽頭田があった。


松原村
まちやらむら

[現在地名]天城町松原まつばら

岡前うわずん村の北に位置し、集落は海に臨む。南東に大城ふーぐすく山、北東に天城岳があり、みなと川が流れる。マチュラともいう。地内に大城とよばれるグスク跡があり、大城・城田ぐすくだ城配田くすくぶたなどの地名がある。またシマ(村)のほぼ中央にマツントウという小丘があり、城主が築城の途中で病死したという伝承がある。与名間ゆなま寄りの沖の配田うきのくぶたにある砕石場から唐の開元通宝、北宋の太平通宝や、朝鮮通宝など古銅銭六千二〇〇枚が発見されているが、当地で鋳造したとみられる無文銭があることも注目される。


松原村
まつばらむら

[現在地名]東大阪市松原南まつばらみなみ一―二丁目・松原

河内郡に属し、水走みずはい村の南にある。村の西半分は吉田よした川の自然堤防上にあり平坦。条里制の坪名一ノ坪・二ノ坪・四ノ坪・十五ノ坪・十六ノ坪・十七ノ坪・二十坪・三十一ノ坪など小字名が残る。東の村境恩智おんぢ川の松原浜には剣先船が着いた。北部を東西に奈良街道(暗峠越)が通り松原宿があった。


松原村
まつばらむら

[現在地名]明野町松原

東は田宿たじゆく村、南は海老島えびがしま村。村の東側は低湿地で、西側は南北に続く台地。江戸時代は天領・旗本領で、寛政三年(一七九一)の村鑑指出帳(糸川家文書)に、村高一二五五・一三三石、反別四三町六畝九歩(田一〇町三畝一九歩・畑三三町二畝二〇歩)、年貢米は宗道そうどう河岸(現結城郡千代川村)から津出しした。享和四年(一八〇四)の村差出シ明細帳(同文書)には「用水は溜池五ケ所御座候得共宗反別水掛ケ申候、然シ近年埋り出水出不申右溜池之分ケ篠之内大池・岩尻池・新池・柳沢池・小坂池。


松原村
まつばらむら

[現在地名]宇土市松原町・城之浦じようのうら町・新松原しんまつばら

東は布古閑ぬのこが村、西は築籠ついごめ村・馬瀬うまのせ村、南は小松原村、北は下益城しもましき三十町さんじつちよう村に接する。北西に石瀬いしのせ川が流れ、北から南へ薩摩街道が通じる。村の中央に大坪おおつぼ、北西に西袋にしのふくろ、西に南袋みなみふくろ、南東に佐野免さのめんなどの字地がある(郡村誌)。近世は松山手永に属し、「国誌」に「里俗大松原村ト云」とある。西安さいあん(曹洞宗)は「正安三年、本寺三世鉄山和尚開基之年貢地也、本尊ハ薬師仏外ニ古キ神躯仏体多クアリ、小西領ノ時断絶セシト云リ(中略)今ノ三字ノ額ハ大慈寺大海和尚筆痕、同細川興文侯ノ筆蹟ナリ」(国誌)という。


松原村
まつわらむら

[現在地名]田主丸町常盤ときわ秋成あきなり

吉田よしだ村の西に位置し、吉田溝(現雲雀川)北岸に屋敷地がある(上三郡絵図)。本高は二〇〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一一九石・役高四一二石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦一五石六斗余・小麦七石八斗余・菜種二石六斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四五一石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一二町七反余・開田二反余・畑田八町三反余・畑一〇町二反余・居屋敷四反余。


松原村
まつばらむら

[現在地名]龍野市揖保町松原いぼちようまつばら

真砂まなご村の北に位置し、揖西いつさい郡に属する。東は林田はやしだ川を挟んで揖東いつとう常全じようぜん(現太子町)、北は門前もんぜん村。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一二四石余、高一〇三石余。領主の変遷は北龍野村と同じ。正保郷帳では田方八二石余・畑方二一石余。元禄郷帳では高一五六石余。宝暦年間(一七五一―六四)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)では一七石余が永荒で、反別は田方九町三反余・畑方一町三反余、本免五ツ三分・荒起二ツ七分、山札役銀二匁一分、家数四五。


松原村
まつばらむら

[現在地名]朝日町上郷かみごう

最上川右岸にあり、北東は宇津野うつの村、南西は杉山すぎやま村。郷帳類には名前が出ない。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。東五百川ひがしいもがわ郷上郷組に属し、天明七年(一七八七)の松山藩左沢領村々大概書(松山町教育委員会蔵)によれば高八石余で、畑四反余のみの小村であった。家数二〇・人数八一、馬五。農間余業に男は薪を取り、女は布を織り、青苧を作るという、年貢金納の村であった。


松原村
まつばらむら

[現在地名]和歌山市松原

名草なくさ郡に属し、馬場ばば村の東にある。村の東南部に小名柏原かしわらがある。平安時代、三上みかみ院のうち安原やすはら郷に含まれたと考えられる。慶長検地高目録によると高三五一石余、小物成七升五合。吉原組に属し、同組大差出帳(和歌山大学蔵)によれば家数二八、人数一五〇、牛一〇、池三(五ヵ村持合の新池・成福寺池・諏訪池)、松山二(尾崎山・諏訪山)


松原村
まつばらむら

[現在地名]深浦町追良瀬おいらせ

追良瀬川の上流約六キロにある。天和三年(一六八三)の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)に本村の追良瀬村のほかに追良瀬御蔵新田とあるのは、後の松原御蔵新田と推定され、貞享四年(一六八七)松原村に改名したという(津軽平野開拓史)。元禄三年(一六九〇)赤石組に属し、村位は下とある(平山日記)。享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、追良瀬村の支村より独立した。


松原村
まつばらむら

[現在地名]四日市市松原町・富州原とみすはら町・たいら町・富田とみだ二―四丁目

蒔田まいた村の南、東富田ひがしとみだ村の北にある。元禄郷帳・天保郷帳とも東富田村枝郷とする。江戸時代を通じて桑名藩領。寛政八年(一七九六)の朝明郡絵図控(豊田次男氏蔵)による戸数は二六。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば本高のほか村高と称する古新田一〇石余、ほかに二石余の新田、一反五畝の質の劣る反取場がある。


松原村
まつばらむら

[現在地名]佐世保市松原町

大野おおの村の南東部に位置し、南に烏帽子えぼし岳がある。江戸時代は平戸藩領。正保国絵図に松原村とあり、高六三〇石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では池野いけの(大野村か)内に松原免が記される。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では相神浦あいこのうら村枝村として高六三一石余。旧高旧領取調帳では大野村内と考えられ、明治七年(一八七四)の区別町村調では松原触、郡村誌では松原免とある。


松原村
まつばらむら

[現在地名]犬飼町西寒田ささむた 松田まつだ

寒田そうだ村の南西にあり、東を西寒田川が南流する。江戸時代を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には松原村が寒田村など九ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に松原村とみえ、下ノ村組に属し、高三九石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高二〇石余・出来高一九石余、田方二七石余・畑方一一石余、柴山外有と注記される。


松原村
まつばらむら

[現在地名]印南町松原

真妻まづま山の南麓、切目きりめ川沿いにある。南は切目川を挟んで丹生にう村。慶長検地高目録によれば村高一九〇石余、小物成四・七三七石。のち皆瀬川かいぜがわ小原こばら神野川こうのがわの各村を分村した。その時期は慶安(一六四八―五二)頃という(続風土記)。分村後の松原村は、延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば、田畑四町八反余で高五六石余、家数二〇で内訳は本役五・半役四・無役九・庄屋一など、人数六九、牛六、馬二、鉄砲二。


松原村
まつばらむら

[現在地名]行橋市松原

稲童いなどう村の南に位置し、東は周防灘に面する。築城ついき郡との郡境に位置する村。元和八年人畜改帳に村名がみえ、御蔵納分高五一七石余、家数二七・人数七九(うち庄屋一・百姓四・名子一〇)、牛六・馬五。郷村高帳では高五八〇石余、うち新田高六一石余。旧高旧領取調帳では高六〇六石余。定免制施行後の年貢率は二二・七パーセント(嘉永五年仲津郡本田畑御勘定帳)


松原村
まつばらむら

[現在地名]益田市白上町しらかみちよう

高津川の支流白上川下流地域に位置し、東は虫追むそう村、南は白上村。地名は往古松の大樹が茂っていたことに由来するという(石見八重葎)。白上川右岸の集落は背後に小丘を挟んで高津川が北流しているため、水利が不便で堤を築いている。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高は二三九石余、寛永一四年(一六三七)の検地高三二一石余(万手鑑)


松原村
まつばらむら

[現在地名]小城町大字池上いけのうえ小島おしま

下久須しもくすの南、牛尾うしのお村の東にある。尾島おしま村ともいい、小島村とも書く。

享和元年(一八〇一)写の御領中郡村附に村名がみえる。また嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳には、牛尾村といっしょにして、地米(年貢)二一四石九斗三升五合とある。


松原村
まつばらむら

[現在地名]金屋町松原

修理川しゆうりがわ村の北、有田川右岸に位置し、川はこの付近で狭くなり峡谷型になる。慶長検地高目録によれば村高八五石余、小物成二斗二升二合。石垣組に属し、「続風土記」は家数三二、人数一八五、社寺として天神社、松原寺(浄土宗)を記す。明治初年には田一〇町七反余、畑八町七反余、山林一六町余(石垣村村誌)。「続風土記」は「在田川此に至りて両岸の大巌川中に横はり出て中央欠る所一丈許、奔流これに懸りて高さ六七尺下深淵の中に瀉下し、洶湧飜転して白浪雪を巻き、散沫霧を飛し激怒の勢喩ふるに物なし」と記すが、これを大滝とよぶ。


松原村
まつばらむら

[現在地名]龍野市神岡町田中かみおかちようたなかなど

田中村の南東に位置し、揖東いつとう郡に属する。南は寄井よりい村。元禄郷帳に村名がみえ、田中村枝郷と注記される。高一二四石余。年未詳の林田藩領村名書付(揖保郡志)に西松原村と下松原村がみえ、林田藩領であった。宝永六年(一七〇九)の林田藩領地方覚記(田淵家文書)には田中村支配東松原村分として高六九石余が記載されている。


松原村
まつばらむら

[現在地名]臼杵市田尻たじり 松原

かよい村の西、末広すえひろ川の最上流域に位置し、西は大分郡宮尾みやお(現大分市)と境する。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳に村名がみえ高八四石余(田方五九石余・畑方二四石余)、うち本高四四石余・出来高四〇石余、柴山がある。これ以前は通村に含まれたとも考えられる。


松原村
まつばらむら

[現在地名]一宮町松原

豊川の右岸、長山ながやま村より下流にあり、松原用水は当村で豊川を分水していた。天正一三年(一五八五)池田輝政の吉田藩領となり、慶長七年(一六〇二)幕府領となって彦坂九兵衛が支配し、寛永年中(一六二四―四四)吉田藩領、天保三年(一八三二)幕府領、同九年吉田藩領となって明治に至る。


松原村
まつばらむら

[現在地名]名張市松原町

大屋戸おやど村の北、曲流する名張川の西側に位置する。江戸時代は寛延(一七四八―五一)頃の戸数九、人口五七、馬一、無祠無寺であった(宗国史)。一村として独立しているが、戸数は少なく社寺もないから、村としての機能は大屋戸村に依存する部分があったのではないかと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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