土師村(読み)はぜむら

日本歴史地名大系 「土師村」の解説

土師村
はぜむら

[現在地名]福知山市字土師・土師新町しんまち・土師宮町みやまち

西流する由良川と北西流する土師川の合流点の南東に位置し、東は長田野おさだのの西縁部に接する。村中を京街道が通り、綾部方面へ向かう街道が土師から分れている。対岸ほり村とは土師の渡で結ばれた。

村の南方江戸えどさか(絵堂ヶ坂)からうえだんの上、長田野の辺縁部西寄りには古墳が多く、ゲシ山古墳群(五世紀)という。第二次世界大戦後、箱式石棺から完全な人頭骨が出土した。

古代は「和名抄」に記す土師はにし(のち土師庄)の地とされる。中世の土師については、「康富記」文安元年(一四四四)五月一九日条に「今夕下著丹波土師宿はしのしゆく、即向天田郡々司堀孫次郎館、面謁之、今安事可渡之由申之」とみえる。著者中原康富は夕方土師の宿に着いてすぐに館へ行ったとあるから、郡司堀孫次郎の館は土師村か、あるいはほど近いところにあったと思われる。

土師村
はじむら

[現在地名]八千代町土師

現八千代町の北部に位置し、西は山県郡、東は中馬ちゆうま長屋ながやの両村(現吉田町)可愛えの川に沿って山県郡東部へ街道が通じる。「芸藩通志」に「昔土師姓の人の所領なりしが、又陶工の所居なるに因て、村名を得たるにや」とある。文明七年(一四七五)一一月二四日付の毛利豊元譲状(毛利家文書)には「土司」と記される。「閥閲録」所収の中村孫右衛門家書上の中村大蔵大輔兼貞のところに「尊氏将軍之御時数度尽軍功、安芸国高田郡之内、上土師・中土師・下土師三ケ村を賜之、暦応四年下向芸州土師郷」とある。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳は「はぢ村」として高六七一・四八七石を記す。「芸藩通志」では畝八四町四反三畝余で、高七五五・五七四石とある。

土師村
はじむら

[現在地名]桂川町土師

土居とい村の南に位置する。東は嘉麻かま下臼井しもうすい村・同郡平山ひらやま(現碓井町)。村の東部を土師川(現泉河内川)が流れる。飯塚宿から大隈おぐま(現嘉穂町)へ通じる道が通る。古代穂浪ほなみ郡土師郷(和名抄)の遺称地で、中世は土師庄が成立した。小早川時代の指出前之帳では土師村の田九二町七反余(分米一千七八八石余)・畠一九町八反余(分大豆一二四石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高三千一三八石余、うち大豆三一九石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三千二〇〇石余、家数一一七・寺一・社一、人数九八六(田圃志)

土師村
はぜむら

[現在地名]堺市土師町・新家しんけ

深井ふかい村の北東にあり、西と北は万代百済もずくだら村・万代梅もずうめ村・万代東もずひがし村と接する。村の東側を西高野街道が通る。大鳥郡に属する。古代は「和名抄」の大鳥郡土師はにし郷に含まれ、中世には当村辺りを中心として土師保があったとされる。応安七年(一三七四)楠木正儀国宣(渡辺文書)に「和泉国土師保」とみえるのがそれで、同文書によると同保は造酒司領で酒造米を納入していたことが知られ、この頃下司の長門入道光阿が押領し、造酒司の支配が有名無実となっていた。

土師村
はじむら

[現在地名]岩間町土師

涸沼ひぬま川と桜川の合流点にあり、水戸街道が南北に縦断する。東は上押辺かみおしのべ村。鎌倉初期から文禄元年(一五九二)まで宍戸氏の領有と伝え、その後慶長七年(一六〇二)まで佐竹氏領。佐竹氏秋田移封後、正保二年(一六四五)まで宍戸藩秋田氏領となり、秋田十左衛門奉行所支配下、村高三九九・〇五一石である(「常州宍戸高村附之覚」友部町百年史)。のち天領となり、天和二年(一六八二)から宍戸藩松平氏領となる。

土師村
はじむら

[現在地名]長船町土師

服部はつとり村の南、南流する香登かがと川と西流してきた干田ほした川とが並流する地に位置する。南は上笠加かみかさか(現邑久町)。古代の邑久郡土師郷(和名抄)の遺称地とされる。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一千七八三石余。正保郷帳でも同高、枝村に高橋たかはし村・鹿崎村・馬場ノ下村が載る。寛文四年(一六六四)の備前備中古新田帳によると、高六三石余が記される。

土師村
はぜむら

[現在地名]香寺町土師

野田のだ村・溝口みぞぐち村の西に位置し、村の中央部を恒屋つねや川が南東流する。生野いくの街道が南北に通る。神東じんとう宮脇みやわき(現姫路市)正八幡神社の天正一九年(一五九一)九月一日の祭礼奉納神事相極次第(正八幡神社文書)に土師村とみえる。慶長国絵図には「はぢ村」と記される。正保郷帳では田方三三一石余・畑方一〇九石余、「旱損所・芝山有・新田有」と注記される。天保郷帳では高五五六石余。皿池さらいけしり大年おおとし神社があり、寺院は浄土真宗本願寺派本覚ほんがく寺・真宗大谷派無量むりよう寺がある。

土師村
はぜむら

[現在地名]龍野市揖西町土師いつさいちようはぜ

竹原たけはら村の東に位置し、揖西郡に属する。集落は低い丘陵裾のきた土井どい・中ノ土井・南ノ土井に集中している。集落南西には大陣原おおじんばらと称される地があり、文禄元年(一五九二)朝鮮出兵のとき豊臣秀吉が陣営したという(龍野志)。慶長国絵図に「はせ村」とみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高二七六石余、高二二八石余。正保郷帳では田方一八三石余・畑方四四石余。元禄郷帳では高二五〇石余。宝暦年間(一七五一―六四)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)では反別は田方一四町六反余・畑方六町八反余、本免五ツ七分・池新田三ツ九分・古新二ツ五分、山役米一斗一升・山札茶役銀二六匁九分、家数五〇。

土師村
はぜむら

[現在地名]鈴鹿市土師町

玉垣たまがき村の北東、金沢かなさい川の北岸にある。西方肥田ひだ村・やなぎ村を経て蛇行する鈴鹿川旧河床の自然堤防上に位置する。北方は広く条里制水田のあった地域で、鈴鹿川から取水した六郷ろくごう用水(寺井)によって灌漑される。村名は「ハシ」とも訓ずる(元禄郷帳)が、その由来については「伊勢式内神社録」に引く当村福善ふくぜん寺の所伝に「土師神社ヲ守護シテ行基土器ヲ焼カシム(中略)往昔此村ニ土器ヲ造リ出シ太神宮ニ貢献セリ、故ニ土師太一ト号ス」とあるなど、伊勢神宮への土器献納によるとの伝承があるが、土地平坦で陶土の採取も困難であり窯跡も存在しない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報