日本大百科全書(ニッポニカ) 「筒井政憲」の意味・わかりやすい解説
筒井政憲
つついまさのり
(1778―1859)
幕末の外交官僚。旗本久世広景の三男として生まれ、1798年(寛政10)筒井家の養子となる。1803年(享和3)学問吟味で優秀な成績を修め学問所の教官となる。1810年(文化7)学問所御用となり林述斎を補佐して昌平坂学問所の運営に携わる。1816年(文化13)家督を相続して目付となり、1817年長崎奉行になり2度長崎に赴任。1821年(文政4)からは町奉行となり、20年間江戸町政に拘る。1841年(天保12)天保改革の開始とともに失脚するが、1845年(弘化2)学問所御用に復帰し、老中阿部正弘から海防・経済・町政などに関する諮問をうけ多くの上申書を提出する。1853年(嘉永6)ロシア使節プチャーチンが来日すると川路聖謨(かわじきよあきら)とともに応接掛として交渉にあたり、翌年日露和親条約を調印する。1856年(安政4)には鑓奉行となり、アメリカ公使ハリスの応接掛や、軍制改革や講武所・蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の御用を勤めた。墓所は東京都新宿区の常円寺。
[上白石実]
『『筒井肥前守明細書』(国立公文書館所蔵内閣文庫)』