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筒井政憲 つつい まさのり

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美術人名辞典の解説

筒井政憲

江戸後期の幕臣。字は子恒、通称は左馬助、鑾溪と号する。大目付に任じられ、ロシアの使節と長崎に会した。文学にも造詣深く、書も能くした。安政6年(1859)歿、81才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

筒井政憲 つつい-まさのり

1778-1859 江戸時代後期の武士。
安永7年5月21日生まれ。幕臣。文政4年から20年余江戸南町奉行をつとめる。嘉永(かえい)7年大目付格海防掛となり,ロシア使節プチャーチンと下田で交渉して日露和親条約の締結につくした。安政6年6月8日死去。82歳。本姓は久世。字(あざな)は子恒。通称は右馬助,佐次右衛門。号は鑾渓。

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(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

筒井政憲

没年:安政6.6.8(1859.7.7)
生年:安永7.5.21(1778.6.15)
江戸後期の幕臣。旗本久世広景と内藤信庸の娘との子。寛政10(1798)年旗本筒井正盈の養子となる。文化9(1812)年西丸徒頭,翌10年二丸目付,12年目付と進み,14年長崎奉行を経て,文政4(1821)年江戸南町奉行となり仙石騒動などを処理,良吏と称された。天保13(1842)年水野忠邦の改革(天保の改革)と合わず免職となるが,のち老中阿部正弘に海防の見識を評価され,弘化4(1847)年西丸留守居に復帰。嘉永6(1853)年プチャーチン,E.V.のロシア艦隊来航時に大目付格として応接掛に就任。翌安政1(1854)年プチャーチン再来の際は下田で交渉に当たり日露和親条約締結に尽力。一方,大目付として軍制改正御用となる。同4年ハリス上府用掛,翌5年鎗奉行を歴任。温雅寛宏,文学に長じ,嘉永5年将軍徳川家慶『論語』の進講をも務めた。<参考文献>「幕府名士小伝」(『旧幕府』1巻2号)

(岩壁義光)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

筒井政憲
つついまさのり
(1778―1859)

幕末の外交官僚。旗本久世広景の三男として生まれ、1798年(寛政10)筒井家の養子となる。1803年(享和3)学問吟味で優秀な成績を修め学問所の教官となる。1810年(文化7)学問所御用となり林述斎を補佐して昌平坂学問所の運営に携わる。1816年(文化13)家督を相続して目付となり、1817年長崎奉行になり2度長崎に赴任。1821年(文政4)からは町奉行となり、20年間江戸町政に拘る。1841年(天保12)天保改革の開始とともに失脚するが、1845年(弘化2)学問所御用に復帰し、老中阿部正弘から海防・経済・町政などに関する諮問をうけ多くの上申書を提出する。1853年(嘉永6)ロシア使節プチャーチンが来日すると川路聖謨(かわじきよあきら)とともに応接掛として交渉にあたり、翌年日露和親条約を調印する。1856年(安政4)には鑓奉行となり、アメリカ公使ハリスの応接掛や、軍制改革や講武所・蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の御用を勤めた。墓所は東京都新宿区の常円寺。[上白石実]
『『筒井肥前守明細書』(国立公文書館所蔵内閣文庫)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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