目付(読み)メツケ

デジタル大辞泉 「目付」の意味・読み・例文・類語

め‐つけ【目付】

室町時代以降の武家の職名。室町初期、侍所さむらいどころ所司代の被官として置かれ、戦国期には戦陣の監察や敵の内情を探るのに当たった。江戸時代、幕府では若年寄に属し、旗本御家人の監察などに当たった。また、諸藩にも置かれた。横目。→大目付おおめつけ
こっそり監視すること。また、その人。→目付け
「野にも山にも宿泊まりに―を付けてこれを見す」〈謡・熊坂
目印。目当て
「屋根の上にとびの二つありしを―にしたりしが」〈咄・醒睡笑・一〉

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精選版 日本国語大辞典 「目付」の意味・読み・例文・類語

め‐つき【目付】

  1. 〘 名詞 〙 物を見るときの目の様子まなざし。めづかい。めもと。
    1. [初出の実例]「ほれぼれと見かへりたる目つき顔ばせいふ計なき様」(出典:御伽草子・秋の夜の長物語(南北朝))
    2. 「利智の目輔(ツキ)盼々として弁話の口輔倩々たり」(出典三国伝記(1407‐46頃か)一二)

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改訂新版 世界大百科事典 「目付」の意味・わかりやすい解説

目付 (めつけ)

(1)室町時代,侍所所司代の下にあって,京中の盗賊などの動静を探った者を称した。1451年(宝徳3)当時侍所頭人(とうにん)であった京極持清が召し使う目付某を,管領畠山持国の被官が持清に通報せずに誅殺したので,持清が怒って畠山亭に押し寄せようとした事件がある。彼らは小舎人(こどねり),下部(しもべ)などとは別で,侍所頭人あるいはその被官である所司代の私的被官であった。持清の被官多賀高忠が所司代のとき(1466ころか)目付であったという骨皮左衛門道元(道源)なる者は,応仁の乱に際して東軍の細川勝元に金品をもって誘われ,手勢300人で稲荷山に陣取って西軍の糧道を断とうとしたが,西軍の勢に攻められて〈所々ノ悪党・物取(ものとり)共ナリケレバ〉(《応仁別記》)散り散りに逃げ失せ,道元も女装して逃げるところを山名勢の〈河原ノ者〉に討ち取られたという。これでみると,江戸時代の目明しに類する存在であったらしい。
執筆者:(2)江戸幕府の職制。慶長・元和期(1596-1624)より置かれ,人数ははじめ十数名から二十数名に及んだが,1732年(享保17)以降10人に固定され,十人目付と称された。若年寄に属して江戸城内外の査察,非常時差配,殿中礼法の指揮,評定所立合,万石以下急養子の判元見届などの職務を務めた。常時本番・加番2人の目付が城内に宿直し,非常に備えた。1723年制定役高は1000石。同名の職は諸藩にも置かれた。
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百科事典マイペディア 「目付」の意味・わかりやすい解説

目付【めつけ】

室町幕府以来の武家の職制の一つ。もとは戦時の監察者の意味。江戸幕府では若年寄支配下旗本御家人を監察。1617年10名を置いて以来常置。諸藩でも藩内諸士の監督のため設置した。大目付は,老中支配下で大名を監視。
→関連項目海防掛日光奉行

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「目付」の意味・わかりやすい解説

目付
めつけ

室町時代には侍所(さむらいどころ)所司代の下で盗賊追捕(ついぶ)などに従った者、戦国~織豊(しょくほう)期には敵情偵察や戦功の査察、武将の施政監察などにあたった者をいう。江戸時代には幕府、諸藩の職名。幕府の目付は、慶長(けいちょう)・元和(げんな)期(1596~1624)より置かれ、人数は初め十数人から二十数人に及んだが、1732年(享保17)以降10人に固定し、十人目付と称された。若年寄に属して、江戸城内外の査察、殿中礼法の指揮、評定所(ひょうじょうしょ)立会い、万石以下急養子の判元見届け、御成(おなり)の行列の監督などを勤めた。また常時、本番・加番2人の目付が城内に宿直し、非常に備えた。幕末に増員され、外国掛、海防掛などの職務を分掌した。布衣(ほい)の職で、1665年(寛文5)役料500俵を支給(1682年、家禄(かろく)に加えられる)。1723年(享保8)制定の役高は1000石とされた。西の丸にも置かれ、初めは臨時の職であったが、1724年以降常置となった。同名の職は諸藩にも置かれ、職掌は多岐にわたった。

松尾美恵子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「目付」の意味・わかりやすい解説

目付
めつけ

室町時代以後の武家の職制。横目ともいう。室町時代初期,幕府侍所の所司代被官としておかれたのに始り,戦国時代には戦陣における監察者をこう呼んだ。江戸幕府では元和3 (1617) 年設置。定員は 10名で旗本から選ばれ,若年寄の耳目として旗本御家人を監察した。各藩においても同様の制度がおかれていた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「目付」の解説

目付
めつけ

江戸幕府の職名。おもに監察にあたる者をいった。1617年(元和3)頃設置。人数は,はじめ不定。1732年(享保17)10人(十人目付),幕末期には30人に増員された。若年寄支配。老中や若年寄の耳目として,旗本・御家人の監察を任としたが,その他江戸城内の巡察,消防の監視,将軍の供奉,評定所出座,法令伝達,願書などの評議,勝手掛,日記掛,町方掛,幕末期には外国掛,海防掛など,職掌は多岐にわたった。藩により同様の制度を用いたところもある。老中の耳目となって諸大名を監察する職制として大目付がおかれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「目付」の解説

目付
めつけ

江戸幕府の職名
戦国時代の家臣に対する監察官に由来する。江戸幕府の若年寄の耳目として旗本や御家人の監察にあたった。1617年に設けられ,定員10名。諸藩にも同様の制度があった。

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世界大百科事典(旧版)内の目付の言及

【使番】より

…若年寄の支配に属し,役高は1000石,格は布衣,詰所は菊之間南御襖際。平時には,将軍の代替りごとに諸国を巡回して大名の治績動静を視察し(諸国巡見使),あるいは幼少の大大名のもとへ多く赴任し,その後見監督に当たり(国目付),あるいは城の受渡しのときにその場に臨んで監督するなど,すべて幕府の上使を務めた。また二条,大坂,駿府,甲府などの要地にも目付として出張し,遠国役人の能否を監察した。…

【評定所】より

…その存在は幕府創設後かなり早くから認められるが,1635年(寛永12)に規則が初めて成文化された。構成員の中心は寺社,町,勘定の三奉行で,これに大目付,目付が審理に加わり,勘定所からの出向者を主とする留役(とめやく)(書記)が実務を担当した。初期には老中も出席したが,1660年代(寛文年間)ごろに寄合(会議)が式日(しきじつ),立合,内寄合(うちよりあい)の3種に分かれて,老中は式日にのみ出座することになり,さらに1720年(享保5)からは月1回出座となった。…

※「目付」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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