箱館湊・函館港(読み)はこだてみなと・はこだてこう

日本歴史地名大系 「箱館湊・函館港」の解説

箱館湊・函館港
はこだてみなと・はこだてこう

函館湾の南東部に位置する湊。南西海中に突き出した函館半島の先端にそびえる函館山(薬師山)の北東麓の懐に抱かれる。近世は箱館湊・箱館津などと記され、松前湊・江差湊と並んで松前三津と称された(東遊雑記)。「蝦夷日誌」(一編)には「蝸牛の巻し様ニ似たる」ので「蝸浦とも云ニよろし」とある。明治以降は函館港と記される。

〔箱館湊〕

新羅之記録」に「中比内海之宇須岸被攻破夷賊事」として、康正二年(一四五六)春、「志濃里之鍛冶屋村」でアイヌの乙孩が鍛冶に殺害されたのを端緒に、大永五年(一五二五)までアイヌの蜂起が続いた折の康正三年五月、「志濃里之館」と「箱館之河野加賀守政通」などが攻め撃たれたという。両館はいずれも道南十二館の一つ。「福山秘府」にも「箱館今云箱館衛所地、地名宇須岸也」と記され、「内海之宇須岸」とは函館湾内の箱館一帯に比定され、一五世紀には河野氏が拠る箱館があった。アイヌとの軋轢により一時後退したらしいが、一六世紀初め頃には宇須岸うすけしへは毎年三回若狭より商舶がきて、宇須岸の問屋は家々を渚汀に懸け造りして住み、纜を縁の柱に結び繋いでいたという(新羅之記録)。宇須岸(箱館)は「纜知らずの湊」といわれるほど天然の良港で交易で栄えていたが、永正九年(一五一二)宇須岸がアイヌに攻撃されて志苔しのりの小林良定らが討たれ、以降和人は松前と上ノ国「天河」とに集住し(同書)、宇須岸は衰微したという。なお、一四世紀半ばの「庭訓往来」に諸国に知られた特産として「宇賀昆布」・夷鮭があげられる。宇賀昆布は志苔昆布として流通したとされる。志苔昆布は亀田半島南岸、汐首しおくび岬辺りまでが産地で、志苔館・志苔蓄銭遺跡が宇賀昆布流通商圏とかかわると推測されることなどから、函館山東麓から汐首岬までの澗、志苔川河口付近の湊なども栄えていたとみられる。

松前藩は亀田かめだを和人地東限としていた。シャクシャインの戦に関する「津軽一統志」には「箱館 澗有 古城有 から家あり」とし、亀田は「川有 澗あり」家二〇〇軒余などとみえ、この頃亀田川河口(当時は函館湾に流入していた)の亀田湊が栄えていた。しかし享保二年(一七一七)の「松前蝦夷記」によると、亀田湊は土砂が流入して「近年遠浅ニなり船懸り悪敷相成」ったため、「向合セ之函館村と申所澗有之、諸国之船多懸り申候ゆへ、船改并蝦夷地之往来商売船等相改申」と、廻船が遠浅になった亀田湊を利用できなくなり箱館湊に入るようになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報