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高田屋嘉兵衛 たかだやかへえ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高田屋嘉兵衛
たかだやかへえ

[生]明和6(1769).1.1. 淡路
[没]文政10(1827).4.5. 淡路
江戸時代後期の海運業者。寛政4 (1792) 年以来,兵庫に出て廻船業を営み,蝦夷松前に航して巨利を得た。幕府の択捉 (えとろふ) 島探検に応じて,同 11年同島への航路を開き,漁場を開拓。享和1 (1801) 年蝦夷地定雇船頭,文化3 (06) 年蝦夷地産物売捌 (うりさばき) 方を命じられ,箱館を拠点として蝦夷地の商権を独占し巨利を得た。

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デジタル大辞泉の解説

たかだや‐かへえ〔‐カヘヱ〕【高田屋嘉兵衛】

[1769~1827]江戸後期の海運業者。淡路の人。西国・北国から松前に航路を開き、幕府の択捉(えとろふ)島開拓に参加。文化9年(1812)ゴロブニン幽囚の報復としてロシアの軍艦に捕らえられ、翌年帰国。のち、両国の融和に尽力。

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百科事典マイペディアの解説

高田屋嘉兵衛【たかだやかへえ】

江戸後期の回船業者。淡路(あわじ)の人。幕府の募集に応じ初めて択捉(えとろふ)島を探検。函館を根拠に蝦夷(えぞ)地の産物売捌(うりさばき)を広く請け負った。1812年国後(くなしり)島付近でゴロブニン逮捕の報復としてロシア船に捕らえられ,同国に連行された。
→関連項目五色[町]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高田屋嘉兵衛 たかだや-かへえ

1769-1827 江戸時代後期の海運業者。
明和6年1月1日生まれ。兵庫と蝦夷(えぞ)地(北海道)との廻船業をいとなむ。寛政10年箱館に出店をもうけ,幕命により択捉島(えとろふとう)航路や同島の漁場を開発。ゴローブニンの箱館幽囚の報復として,文化9年ロシア船に捕らえられ,カムチャツカに連行される。翌年送還され,ゴローブニンの釈放,日露間の紛争解決につとめた。文政10年4月5日死去。59歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

高田屋嘉兵衛

没年:文政10.4.5(1827.4.30)
生年:明和6(1769)
江戸後期の蝦夷地開発の海運業者。淡路国津名郡都志本村(兵庫県五色町)百姓弥吉の長男。幼名菊弥。寛政2(1790)年兵庫に出て,樽廻船の乗組員となる。同4年兵庫西出町に居を構え,船頭として長崎,下関などとの物資輸送に従事。同7年和泉屋伊兵衛の手船の船頭となり酒田へ行き,庄内で辰悦丸(1500石積)の建造に着手,翌年完成し船持船頭として独立。兵庫で酒,塩,木綿など,酒田で米を積み,箱館に回送,帰りは蝦夷地の海産物を買い入れ,大坂で売却し,北前船交易を開始した。同10年箱館大町に支店を設け,弟金兵衛を支配人とし,手船5艘で蝦夷地の産物を下関,上方で売却し,松前藩の用達となる。同11年東蝦夷地が幕府直轄となり,幕府の物資輸送に従事し,択捉航路の開発に成功。同12年には,択捉島の漁場17カ所を開発し,官船5艘の建造を命じられ,翌享和1(1801)年大坂で完成,蝦夷地定雇船頭となり,官船と定雇船を一手に掌握した。文化3(1806)年には大坂町奉行所から蝦夷地産物売捌方を命じられ,同7年には択捉場所,同11年には根室場所,文政2年には幌泉場所を請け負い,場所経営を拡大した。この間,文化9年8月観世丸で択捉場所から箱館に向かう途中,ロシア船に拿捕された。その際,「取みださぬ様,専一之事ニ存候」と弟に手紙を遺し,カムチャツカに連行,抑留されたが,日露の高官と交渉を重ね,翌年日露の紛争解決に尽力し,その功を賞された。文政1(1818)年には弟金兵衛に事業を譲り,郷里の淡路で養生し,近隣の堤や港湾の修築などに貢献した。同地で死去。<参考文献>『函館市史』通史編1巻,須藤隆仙『高田屋嘉兵衛

(上村雅洋)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たかだやかへえ【高田屋嘉兵衛】

1769‐1827(明和6‐文政10)
江戸後期の商人。淡路の人。本姓高田で姓を屋号とした。兵庫を根拠に日本海・松前方面との廻船業を始め,1798年(寛政10)には箱館にも出店,幕府の北方政策に密着して1800年には択捉(えとろふ)島に至る航路や同島の漁場を開発し,01年(享和1)には幕府から蝦夷地定雇(じようやとい)船頭を命じられた。続いて蝦夷地東部にも場所請負の漁場をも経営,やがて箱館に本店,兵庫・大坂に支店を設けて手船数十艘を動かす有力商人となった。

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大辞林 第三版の解説

たかだやかへえ【高田屋嘉兵衛】

1769~1827) 江戸後期の海運業者。淡路の人。蝦夷えぞ交易を中心に活躍。1812年国後くなしり島沖で、ゴローニン幽囚の報復としてロシア海軍に捕らえられる。翌年帰国後はゴローニンの釈放その他、幕府とロシアとの仲介に努力。幕府蝦夷御用船頭にも任じられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高田屋嘉兵衛
たかだやかへえ
(1769―1827)

江戸後期の豪商、廻船(かいせん)業者。明和(めいわ)6年1月1日淡路(あわじ)国津名(つな)郡都志(つし)本村(兵庫県洲本(すもと)市都志)に生まれる。1500石積みの辰悦丸(しんえつまる)を所有し、兵庫を根拠に北海産物の交易に従事し、1798年(寛政10)には箱館(はこだて)に支店を開設。1799年東蝦夷(ひがしえぞ)地の仮上知(かりあげち)に伴い、幕命を受けて択捉(えとろふ)島への渡海路の調査にあたる。翌年辰悦丸で択捉島に渡り、大船通路の基礎を築くとともに、同島の漁場の開発に努めた。この功により1801年(享和1)に「蝦夷地御用定雇船頭(じょうやといせんどう)」に任じられて幕府の蝦夷地直営に参画し、官船の製造や官用船の運営にあたった。直営廃止後も、択捉場所、ネモロ(根室(ねむろ))場所などの場所請負を行い、箱館大町に本店を移し、大坂、兵庫に支店を置き、巨万の富を築いた。この間、ゴロウニン幽囚事件の報復として、1812年(文化9)国後(くなしり)沖でリコルド指揮下のロシア軍艦ディアナ号に捕らえられてカムチャツカに連行されたが、その剛胆で沈着な態度に感服したリコルドをして、嘉兵衛を頼りゴロウニンらの釈放を求める決意を固めさせた。翌1813年ディアナ号で国後島に送還された嘉兵衛の尽力により、同年9月、事件は円満に解決した。晩年は弟金兵衛に跡目を継がせて郷里に退隠し、文政(ぶんせい)10年4月5日自宅に没した。[小林真人]

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世界大百科事典内の高田屋嘉兵衛の言及

【択捉島】より

…国後(くなしり)島の北東にあり,択捉海峡を挟んでウルップ島に相対する。1798年(寛政10)近藤重蔵,最上徳内が探検して〈大日本恵登呂府〉の標柱を立て,翌年高田屋嘉兵衛によって航路が開かれた。1855年(安政2)の日露和親条約によって日本領とされた。…

【ゴロブニン】より

…1806‐07年に一部のロシア軍人がサハリン(樺太),択捉(えとろふ)島などで日本の番所を襲撃する事件があり,幕府は蝦夷地の防備を固めていたのである。ディアナ号の副艦長リコルドや彼が人質とした箱館の商人高田屋嘉兵衛の尽力もあって,13年に釈放される。この間,足立左内,馬場佐十郎,間宮林蔵らにロシア語やロシアの国情を伝え,帰国後は,日本人のもとでの抑留生活の詳細な記録と卓抜な観察からなる《日本幽囚記》(1816)を著す。…

【千島列島】より

…その後,89年(寛政1)国後・目梨地方(メナシはアイヌ語で〈東〉の意で,現在の目梨・標津(しべつ)両郡の沿岸地区)のアイヌが蜂起したこともあって(国後・目梨の戦),98年幕府は再度千島を調査し,近藤重蔵が択捉島に〈大日本恵登呂府〉の標柱を建てた。翌99年東蝦夷地とともに千島を幕府直轄領とし,1800年高田屋嘉兵衛に命じて択捉島に漁場を開かせるとともに,同島に郷村制を実施してアイヌの同化策を進めた。 同地は21年(文政4)再度松前藩領となったが,この間,1807年(文化4)フボストフNikolai KhvostovやダビドフGavriil I.Davydovらの択捉島攻撃,11年千島海域の測量に来たゴロブニンの捕縛と翌年のリコルドPyotr I.Rikordによる高田屋嘉兵衛の連行など,千島を介して日本と交易関係を結ぼうとするロシアとの間にしばしば紛争が生じた。…

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